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1950年代の欧州風架空世界を舞台にしたファンタジー小説です。 ちょいレトロ風味の魔法譚。
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 保管庫で見たオスカーの記憶の中で、ミレイユが“決定的”なひと言を告げたのは、あれは確かステファンが八歳の秋だった。暖炉の薪がはじけた音まで覚えている。
「あんまり思い出したくないな……でも間違いない。あの時、お母さんは魔法なんて存在しない、って言ったんだ」
「逆に言えば、二年前まではステフの力が何なのかを認識してたってわけだ」
 オーリは居間の中を行ったり来たりしながら独り言のようにつぶやいた。
「二年前……オスカーが行方知れずになったのはその後か。十一月の聖花火祭の夜、ひょっこりうちに訪ねて来たのが最後だったな」
「お父さん、ここへ来たの?」
「ああ。わたしのコレクションを借りたい、と言ってね」
 オーリは悔しそうにコツ、と自分の額を叩いた。
「“忘却の辞書”という魔道具だよ。昔の魔女や魔法使いが忘却魔法で相手から奪い去った記憶が文字で記されている。知っての通り、オスカーは遺跡を研究していたからてっきり古文書の解読にでも使うのかと思っていたんだ。まさか彼が辞書本来の力を使えるなんて、それも自分の家族に魔法を掛けるなんて思いもしなかった。もしもあれを使ったとすれば……」
 そこまで言って、オーリは急に難しい顔をして黙り込んでしまった。
「使うと、何かまずいことでも起こるの?」
「まずいさ。辞書というのは、言葉の海だ。言葉には人の思いが込められている。まして忘却魔法で奪わなくてはならないような記憶なんて、どんな強い力を持っているか知れやしない――ステフ!」
 オーリは急に顔を上げた。
「オスカーは君と同じように“同調魔法”を使えはしなかったか?」
「ええ?」
 ステファンは驚き、首を振った。
「まさか。お父さんは僕の力を使う遊びをいろいろ教えてくれたけど、自分で魔法を使うところなんて見たことないよ。先生だって言ったじゃないか、独力では魔法を使えなかったって。だから魔道具なんてコレクションを……」
 コレクション? 二人は同時に顔を見合わせ、同時に居間を飛び出した。
「ステフ、保管庫の中にあの辞書があるなんて、まさか思っていないだろうな?」
「先生だって! お父さんがぼくみたいに意識を取り込まれたとか、思ってるんじゃないの?」
 二階に上がるだけの短い階段が、こんなにまだるっこしかったことはない。書庫の前に来るや否や、オーリはドアノブに触れるだけでバチッと大きな火花を散らし、鍵を開けてしまった。

 
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「うわ……!」
 書庫の中を見たステファンは言葉を失った。本が列をなして飛び交い、書架はアメのようにぐにゃりと曲がり、部屋全体が渦巻きのように歪んでいる。
「だから、まだ整理中なんだよ。危ないからステフはそこで待っていなさい」
 オーリはそう言うと杖を取り出し、
「通してくれ!」
 と叫びながら渦巻きの中に飛び込んでいった。
 
 何分経ったろうか。書庫の渦巻きは一向に治まりそうもない。時折、稲妻のような金色の光が走るだけだ。ステファンが我慢しきれず、もう一度透視をしてみようか、と思い始めた頃、ゆらり、と影のようにオーリが姿を現した。
「先生! 大丈夫? 辞書はあった?」
「ああ、あったよ……」
 古びた革表紙の辞書が、オーリの左手の中で禍々しい存在感を示していた。
「それで、お父さんは?」
 オーリはうつむいたまま首を振った。
「ここにはオスカーの手掛かりは無いよ。バカだな、わたしは。ミレイユさんが記憶を取り戻したってことは、辞書の魔法が効力を失ったってことじゃないか。それに、この中にオスカーの意識が取り込まれてるんだったら、ステフが保管庫で真っ先に気付いたはずだものな。何を期待したんだろう……」
 ステファンは膝の力が抜けそうになった。近づいたと思ったオスカーが、また遠くに行ってしまったような気がした。
 じゃ、いったいお父さんはどこに居るの、と言い掛けて、ステファンは言葉を飲み込んだ。
 長い髪が垂れて隠れたままのオーリの顔が、悔しさに震えているような気がしたのだ。
 どうしていいのかわからないステファンは、空っぽのオーリの右手をぎゅっと握った。
「大丈夫だよ、先生」
 ステファンは精一杯明るい声で言った。
「お父さんなら、きっとどこがで元気にしてるよ。なんでかわからないけど、ぼくそんな気がして仕方ないんだ」
 思いつきや気休めで言っているのではない。父はとても遠いけど、確かにどこかに居る、はっきりと存在を感じる。ステファンにはそれを表す言葉がうまく出てこなくて、もどかしい思いだった。 
 オーリは長い髪の下からステファンをじっと見た。
「似てるな、そういう目をするところが……ああ、そうだな。君にわかるんなら、まちがいないさ。なんたってオスカーは、ステフの父親なんだからな」
 そう自分に言い聞かせるように言って、オーリは二度、三度、ステファンと繋いだ手を振った。
「それ、見てもいい?」
 ステファンは辞書を手に取ってみた。見た目よりもずっと軽く、拍子抜けするほどだ。が、そのページをぱらぱらとめくって、さらに驚いた。
「白紙だ。先生、文字がひとつも無いよ!」
「だから、効力を失ったって言ったろう」
 オーリはやっと苦笑いのような表情を見せた。
「この辞書を作ったやつは、まさか十歳の子と魔力の無い母親に魔法を破られるなんて思いもしなかったろうな。たいしたもんだよ、君たちは」
「そ、そうなの? ぼく、とんでもないことしちゃった?」
「いや、いいんだよ」
 辞書を受け取りながら、オーリは感慨深そうに言った。
「こんな物は存在しないほうがいい。オスカーの前に書き込んだ連中はとうにこの世に居ないし、記憶を奪われた人たちも、今ごろ墓場の中でホッとしてるんじゃないかな」
 
 辞書の最後のページをめくったオーリは、うん? と怪訝な顔をした。
「ページが破れている。それに妙な焦げ跡だ」
「先生、それ! その焦げ方って、ぼく見たことあるよ!」
 ステファンに指をさされて、オーリはハッと顔を上げた。
「オスカーの手紙か!」
 二人は再び同時に走り、アトリエに向かった。

 本棚に積まれた本ががなだれを起こすのも構わず、オーリは一冊のファイルを取り出した。
 ステファンの家で見せた、オスカーの半分焼けた手紙が挟んである。
「同じだ。ぴったり同じ」
 オーリは手紙と辞書のページを突き合わせた。微かに手が震えている。
「普通の紙でないことはわかっていたけど、罫線が引かれていたから便箋だと思っていたんだ。この焦げ跡にしたって、焼けたんじゃなくて“焼き切った”という感じだな」
「でもなぜ? なんで辞書の紙なんか使ったの?」
 パタン、と辞書を閉じてオーリは力強く言った。
「専門家の助けがいるようだな。よし決めた。会いに行こう。ステフ、一緒に来てくれるな?」

 
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 石畳の大きな街には、新旧さまざまな建物がひしめいている。
その間を縫って路面電車が走り、車が列をなして走り抜けていく。

「そんなにキョロキョロしてると自分で田舎者です、と言ってるようなもんだよ」
 オーリが冷やかすように声を掛ける。ローブではなく、涼やかな細身のスーツを着て帽子を被る姿は、魔法使いというより洒落っけのある外国人紳士という風情だ。
「だってぼく、こんなに車が多いとこ見たことなくて……あ、あれって信号だよね?」
 今にも駆け出しそうなステファンの肩をエレインがつかまえた。
「だめよ、あんな変なのに近づいちゃ。大きな目玉ぎょろつかせて、なに考えてるんだか」
「別に取って喰われやしないよ。君たちこそ、信号機を壊したりしないでくれよ」
 オーリはやれやれ、と疲れた顔をした。ステファンはまだ大人しくしているほうだが、エレインはさっきからしょっちゅう立ち止まっては、あれは何、これは何、といちいち説明を求めてくる。
 とうとうオーリは苦情を言わねばならなくなった。
「もしもし守護者どの、君は自分の役目を忘れてるんじゃないのか? これじゃいつまでたってもユーリアンの家に着けやしない」
「なによ、だったらいつものように“飛んで”くれば良かったんだわ。そしたらこんな変な服着て汽車なんてバケモノに飲まれなくて済んだのに!」
 エレインは広い帽子のつばを引き上げてオーリを睨んだ。薄い水色の長袖ブラウスに赤毛が映える。細く絞ったベルトの下は、いつもの短いズボンではなく、スカートを履いている。マーシャの見立てなのか、昔風のたっぷりした丈で、彼女のしなやかな脚を隠していた。
「さすがに三人で“飛ぶ”のは無理だよ。それにこんな機会でもないと、エレインのお洒落した姿なんて見られないしね」
 オーリは眩しそうな目でエレインの手を取った。その手さえもレースの手袋で覆われている。竜人特有の青い紋様を隠すためとはいえ、さすがに窮屈だろうな、とステファンは同情した。
「ねえ先生、“飛ぶ”ってどうするの? アトラスだと街の人がびっくりするし、もしかしてホウキに乗ったりする?」
 期待を込めてステファンが訊いた。
「まさか。都市部へのホウキ乗り入れは半世紀も前に禁止されてるよ。電線に引っかかる事故が後を絶たなかったそうだから。わたしの師匠は最後のホウキ世代だったから、乗り方くらいは教えてくれたけどね」
「じゃ、先生はどうやって?」
「例えて言うなら瞬間移動、みたいなもんかな。でも飛ぶのは一度に二人が限度だ。結構疲れるんだよ」
「教わらないほうがいいわ、ステフ。オーリなんかしょっちゅう着地に失敗するし、慣れないと酔って吐くわよ」
 エレインの皮肉な笑いに咳払いして、オーリは道の向こうを指差した。
「ほら、あんまり遅いからユーリアンが迎えに出ている」
 同じような二軒続きの家が並ぶ一角で、見覚えのある褐色の青年が手を振っている。青年の腕には小さな女の子、隣には大きなお腹の女性が立っている。
 どこにでも居る、普通の幸せそうな家族という感じだ。この前会った時のような、強烈な火山のイメージは無い。
 ローブを着ない時の魔法使いって本当に一般人と見分けがつかないな、とステファンは思った。
 
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 二棟続きの赤茶けたレンガの家は、左側がユーリアンの家になっており、隣は別の家族が住んでいるようだ。玄関のランプ飾りが魔女の形をしているのが可愛らしかった。きっと夜には、この魔女が灯りを抱いて出迎えてくれるのだろう。
「あなたがステファンね? ユーリアンがさんざん誉めてたわよ」
 お腹の大きな女性に微笑みかけられて、うわ本物の魔女だ、とステファンは緊張した。黒い服など着ていなくてもわかる。切れ長の目と艶やかな黒髪は美しいが、どこか油断のならない恐さがある。
「順調そうでなによりだ、トーニャ。次も女の子なら、ユーリアンの立場はますます弱くなるな」
「その通り!」
 快活に笑いながらユーリアンは三人を招き入れた。
「トーニャはオーリのいとこなのよ。この前の手紙でしゃべってた魔女の娘」
 エレインに耳打ちされて、ああそうか、とステファンは思い出した。虚像伝言だったとはいえ、あの威圧感たっぷりの魔女の娘――どうりで恐いはずだ。

 狭い玄関と廊下の先は、涼しい風が吹き抜けるダイニングに続いていた。
「狭いけどゆっくりしてってくれ。今は夏休みだから隣の悪ガキも居ないし、この辺りは静かなもんさ」
 ダイニングの向こうは縦長い芝生の庭だ。庭の外れには林檎の木が、隣家との境には蔓バラが、目隠しのように植えられている。田舎にくらべると確かに狭いが、街中の家はこんなものなのだろうか。
「アーニャ、見るたびに大きくなるね。ほら、お土産だ」
 オーリはユーリアンの腕の中に居る女の子の目の前でパチンと指を鳴らした。
 どこから現れたのか、色とりどりのキャンディーが花びらのように宙を舞う。
 女の子は歓声を上げると、小さな手を伸ばして全てのキャンディーを引き寄せて捕まえてしまった。
 ステファンは茫然とそれを見つめた。あれはオスカーに教えてもらった遊びと同じだ。けれどステファンが小さいときは、吹けば飛びそうな軽い紙のハトを捕まえるのが精一杯だった。まだオムツがとれたばかりのようなニ、三歳の子が、キャンディーのような重みのあるものを、しかも複数同時に捕まえている――はっきり言って、この光景はショックだ。
「アーニャ、今日はひとつだけよ。オーリおじちゃまにありがとうは?」
 トーニャに言われて、アーニャは床に飛び降り、オーリに駆け寄った。 おじちゃまと呼ばれてオーリは苦笑しながらも、頬に小さなアーニャのキスを受けて満足そうだ。
 アーニャはエレインとステファンにも駆け寄って来る。勘弁してくれ、とステファンは首をすくめた。小さい子は苦手だ――思ったとおり、キスのついでに水っ鼻をつけられてしまった。
 うへえ、と思って必死に頬をぬぐっているステファンをよそに、大人達は談笑を始めている。
 
 さっさと辞書のことを聞けばいいのに。
 オスカーの手紙の謎を解きに来たんじゃなかったのか。
 バラの香を運ぶ涼しい風も、トーニャが出してくれた炭酸のジュースも、今のステファンにはちっとも楽しめない。ユーリアンが季節を問わず熱いお茶しか飲まないとか、トーニャのベビーがいつ生まれるかとか、エレインのスカート姿がどうしたとか、そんなことはどうだっていい。
 じりじりしながらうつむくステファンの手に、ふいに柔らかいものが触れた。小さいアーニャの手だ。黒ぐろとした真ん丸い目を向けて、じーっと顔をのぞきこみに来る。
「な、なに?」
 わざと不機嫌な声を出してステファンは追っ払おうとした。ところがアーニャは手を離すどころか、とろけるような笑顔を向けてきた。
 なんて顔をするんだ、と思う。意味もわからず魔力を使うチビのくせに。水っ鼻をつけてるチビのくせに。けれどアーニャは、その邪気のない澄んだ目を向けたまま、舌ったらずの発音で呼びかける。
「あとぼー(遊ぼう)!」

 大人達の会話は今や、エレインに化粧をさせるかどうかというくだらない話題で盛り上がっていた。
「トーニャ、うちの守護者には人間の価値観を押し付けないでくれないか……おや?」
 オーリは庭に続く窓に目を向けた。アーニャに手を引かれたステファンが、どうしてよいかわからずうろたえている。
 くくく、と笑ってオーリはエレインに耳打ちした。
「了解! トーニャ、靴脱いでいい?」
 答えを待つ間もなくエレインは靴を放りだしていた。
「ま、待てエレイン! 何も裸足になれとは、おいっ」
 オーリが焦って止める間にも、手袋と靴下までがポイポイと宙を舞った。
「“はしたない”って言うつもり? エレインには人間の価値観を押し付けないんじゃなかった?」
 トーニャは面白そうにオーリの表情を眺めている。
 その間にもエレインは裸足で庭に駆け出し、高々とスカートをたくし上げながらアーニャと追いかけっこを始めてしまった。
「ステーフ! ぼんやりしてないで一緒に遊ぶよ、ほらっ」
 エレインに急きたてられて、ようやくステファンも追いかけっこに加わった。
「ま、いいんじゃないか? 裏庭なら通りから見えないし。あれだけあっけらかんと脚を出すんなら、こっちも気を使わずにおくさ」
 ユーリアンはさっきから笑いすぎてティーカップをひっくり返しそうだ。
「面目ない。まったくうちの守護者は大人なんだか子供なんだか……」
 ひとり、オーリだけが顔を赤くして頭を抱えている。
「童心だよオーり、“童心”。僕らの師匠が一番重んじたことだろ? エレインには充分それが残ってるってことさ」 
「だから困るんだよ」
 オーリはぼそりとつぶやいた。  
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「それよりオーリ、例の“竜人管理法”のこと。何か対策は考えてるの?」
 トーニャが声をひそめた。
「ああ、エレインとはいろいろ議論してるよ。けど、わかってもらえなくてね。“野蛮なる竜人は竜に順ずる扱いとす”――希代の悪法だ。要するに竜人を隔離して、都合よく管理しようってわけだろう。ばかばかしい、なにが“管理”だ。もともと人間と竜人は対等なはずなのに。それに野蛮な迫害をしたのはむしろ人間のほうだろう!」
「落ち着け。悪法でも法は法、ってやつだ。お前がここで憤慨してても何も変わらないぞ、オーリ」
「わかってるさ! ああ、魔法使いなんてのはこの国じゃ無力だ。いいように振り回されて、何も意見できやしない」
 オーリは腹立ち紛れなのか癖なのか、テーブルの隅にあった紙にぐしゃぐしゃを描いている。ユーリアンはそれを目で追いながら思い出すように言った。
「他の奴らはどうしてるのかな。屈強な竜人と契約している魔法使いは多いから、皆なにかの抜け道を考えているだろうけど。確か、一定の職業に就いて申請すればいいんじゃなかったっけ」
「でも守護者は“職業”としてどうなのかしら。魔法使い自体、公(おおやけ)には認められていないんだから、その“守護者”というのも有り得ない、と言われたら」
「ガルバイヤン家全体の守護者、ってのはどうだ?」
「いいよ。職業なんて適当にみつくろって申請書類をでっちあげる。それより問題はエレインのほうだ。彼女には“金(カネ)の意味がわからない。何度説明しても、わかってくれないんだ。申請のときには役所でいろいろ聞かれるだろうから……困ったな。まさか“報酬は魔力です”なんて言えないし」
「なあオーリ」
 ユーリアンは大きな瞳でじっとオーリの表情を伺いながら言った。
「いっそ、結婚しちまえば?」
 
 ポトリ。
 オーリの手からペンが落ちて転がる。
 石像のように固まったまま、その顔がみるみる赤くなる。
「な、な、なにを急に……なんでそんな話に」
「急に、じゃないだろうが。法的にはどうなるか知らんが、考えたことくらいあるだろう」
「ばかな! そんなつもりで契約したんじゃない!」
 今や耳まで真っ赤になったオーリは、立ち上がって机を叩いた。
「ひと目惚れだったくせに」
 ユーリアンは落ち着き払って、オーリの心を見透かすような口ぶりでいる。
「いいかオーリ、覚悟を決めろ。エレインを守るためなら手段を尽くせ」
「そんな……無茶いうな」
 オーリは力なく椅子に座った。
「それこそ、エレインには理解しがたい話だ。いいか、竜人フィスス族を滅ぼしたのは人間だぞ。その人間と守護者契約をするってだけで大変だったんだから。それにあの一族は、普段は母親集団と父親集団が離れて暮らしてたんだ。“結婚”なんて考え方はもともと無い。ましてエレインなんて巫女みたいな育てられ方してたから……」
「何を言ってるんだか。どうして魔法使いってそういう考え方をするのかしら」
 トーニャは冷ややかに言って新しいお茶を注いだ。
「仮にエレインが理解したとして。身分を保証するための結婚、なんて誇り高い彼女が納得すると思う?」
「……どうすればいいんだ?」
「自分で考えなさい。まったくいい年をして手のかかる」
 すまし顔でカップを口に運ぶ従姉を、オーリはまだ赤い顔のまま睨んだ。

 
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「二人とも、帽子を被った方がいいわね。取ってきたげる」
 エレインは汗を浮かべた前髪を跳ね上げると、家の中に戻って行った。 
 八月も終わりとはいえ、日中はやはり暑い。アーニャは追いかけっこに飽きたのか、涼しい生垣の下にしゃがみこんで花びらを拾い始めた。
「あん、とぅー、ぴー、ぽぉー」
 数を数えているのか、それとも呪文のつもりなのか。小さい指が動く度に、花びらがひらひらと舞い上がる。
 さっきキャンディーを捕まえたことを思えば、花びらを舞わせることなど何の苦も無いのだろう。
 この子は家の中でこんな遊びをしても、叱られたことなんか無いんだろうな、そうぼんやり思いながら、ステファンも無意識に花びらを捕まえた。
「だぁーっめ! め!」
 急にアーニャが立ち上がり、ドン、とステファンを突いた。
「な、なんだよ」
「め! アーニャがするの!」
 口を尖らせて小さなこぶしを振ると、つむじ風のように花びらが舞う。
 ステファンは鼻の頭にシワを寄せた。――生意気なチビだ。さっきちょっとでも可愛いなんて思って損した。
「ステフ、ちょっと入って。オーリが呼んでる」
 エレインの声に救われた。あと五分、このチビ魔女の子守をさせられていたら、ほっぺたをつねるくらいはしていたかもしれない。

 ダイニングではオーリが落ち着き無く歩き回っていた。トーニャもユーリアンも、懸命に笑いをこらえているのがわかる。ステファンはこっそりとエレインに訊ねてみた。
「ね、先生どうかしちゃったの?」
「知らない。さっきからああなんだもん。熱いお茶でも飲みすぎたんじゃない?」
 エレインはさっぱりわからない、という顔で肩をすくめて、再び庭へ出た。
「あー、ステファン、待たせて悪い。さっさと本来の目的を果たすとしよう」
 咳払いして座るオーリの頬は少し赤いように見える。なるほどエレインの言うとおりかも、と思いながら、ステファンはテーブルに目を留めた。あの「忘却の辞書」が置かれている。
「保管庫の中で見たことを、わたしたちにも話してくれる? どんな小さなことでもいいから」
 トーニャの声は優しいが、目は油断なくステファンを観察している。
 こんな目で見られるのはあまりいい気分ではないし、正直言って、保管庫のことはあんまり思い出したくない。けれどオスカーの手掛かりを少しでも見つけるためだ。ステファンはとつとつと語り始めた――もちろん、ファントムの前で大泣きした事は抜きにして。
 
 ステファンが語り、オーリが話の合間に補足をする。トーニャは二人から目を離さないままでメモを取っている。手だけが別の生き物のように動くさまは、オーリが羽根ペンで絵を描く時と似ている。
「面白い?」
 ステファンが不思議そうに手元を見ているのに気付いたのか、トーニャはペンを止めて微笑んだ。
「トーニャは魔女出版の記者なんだ。ほら、いつかのトラフズクを覚えているだろう」
「今は“もと記者”よ。最近はデスクワークばかりで面白くなかったから、こういうのは楽しいわね。で、それから?」
「それから……いや、それで全部だ」
 きっぱり答えるオーリに、ステファンは心の中で感謝した。ステファンが勝手に保管庫の鍵を開けたことや泣いたこと、しばらく起き上がれなかったことには、少しも触れなかったからだ。


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「ふ、まあいいわ。さて、この中から何か手掛かりが見つかるといいけど」
 メモ帳を繰るトーニャの表情は、笑いを含んでいる。心を見透かされているようでステファンは不愉快だったが、ここは我慢して力を借りるしかない。
「トーニャ、くれぐれも言っとくけど、これは仕事として頼んでるわけじゃないから」
 オーリは油断なく魔女の手元を見ながら、釘をさすように言った。
「当たり前よ。いくら魔女がゴシップ好きでも友人探しまで記事のネタになんかしない。そのくらいの節度はわきまえているわ。それより問題はオスカーの手紙ね」
「んー、わからないことだらけなんだよなあ」
 ユーリアンはさっきから辞書とオスカーの手紙を何度もひっくり返して見ている。裏表紙の見返しと一続きの余白ページが、綴じ代を僅かに残してきれいに焼き切られている。
「最初にオーリからこの手紙を見せられた時にもいろいろ調べたけど、おかしいと思ってたんだ。紙の繊維が、罫線に対して横目になってる。つまり本来なら縦長で使うべき紙を、わざわざ横にして使ってる。なぜだろう、とね。まさか辞書の余白ページを使ったとは思わなかったよ」
「ぼく、その手紙には続きがあると思ってた」
 ステファンは最初にこの手紙を見た時のことを思い出して残念そうに言った。
「わたしもだ。最後の行のすぐ下が焦げてるものな。ページを焼き切ったとは……普通に切ったり破いたりできなかったってことか?」
「それもある」
 ユーリアンは黒く大きな目で丹念に焦げ跡を透かし見た。
「トーニャが言うには、古い魔女が祭文に使った特種な紙だそうだ。ドラゴンの油を漉きこむそうだよ。この黒い焦げ色はその脂肪分が燃えた、炭素の色だ。この紙には言葉を守る力があると言われているが、手で引っ張ったくらいではもちろん破けないし、刃物を当てようとすると逆に呪いを受ける。オーリ、もう魔法は解かれたわけだし、辞書を分解してみてもいいかな」
「ああ、もちろん。ただ気をつけてくれ、ユーリアン」
 ユーリアンは杖を持ってくると、慎重に辞書に向けた。
 微振動が置き、ぱらぱらとページが開いて、辞書がひとりでに分解され始める。ステファンはごくりと唾を飲み込んだ。
「まず表紙だ。この革はカーフ(子牛革)に似てるが……違うかな。絶滅した一角牛の革かも……次に見返し部分……破かないように剥がしてと……ああ、やっぱりだ。ステファン、君なら読めるかな。裏に何か書いてあるだろう」
 ステファンは懸命に目を凝らし、滲むような薄い文字を読み上げた。
「“ただメルセイの熱針をもってのみ我を分かつべし”」
「よく読めるわね!わたしにはインク染みにしか見えないわ」
 驚きの声をあげるトーニャをよそに、オーリはユーリアンと顔を見合わせてニヤッと笑った。
「先生、メルセイの熱針って?」
「その昔メルセイという賢者が作った、熱を発する鉱物針だよ。主に呪い除けに使うんだ。オスカーはどこかで手に入れたのかな」
「熱で紙を焼いたってこと? 炎じゃなく?」
「ああ。紙を焼くには結構高温が必要なんだけど、炎だと辞書本体まで焼いてしまう恐れがあるからね。なるほど、紙を立てておいて熱針を横から当てて切り取った、ということかな、ユーリアン?」
 黙ってうなずくユーリアンは、指揮者のような手付きで杖を振っている。
「さて、本体ページは……魔法が解けた今となっては、どうってことのない普通の薄葉紙だな。タバコの巻紙にだって使えるよ」
 タバコ、と聞いてトーニャがテーブルの下で夫の足を蹴った。
「いや、例えだよ、たとえ。僕はちゃんと禁煙してるから、トーニャ。オスカーがこの辞書を借りた目的はやはり、忘却魔法と特種紙か……」
「ひどいな、お父さんたら」
 ステファンは沈んだ顔をした。
「先生から借りた本を勝手に切るなんてさ。それにどうせなら、って言ったら悪いけど、お母さんの記憶を消すなら、“離婚”て言葉も消せばよかったのに。なんでそうしなかったのかな」
「ステファン」
 オーリもまた、沈痛な顔でこぶしを額に押し当てた。
「オスカーが以前、わたしに言ったことがあるんだ。“ミレイユの最大の不幸を消してあげたい”とね。もしかしたらそれと関係するんじゃないかと思えてきた」
「最大の、不幸?」
 思いもよらない言葉に皆が固唾を呑んだ。
 
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 部屋の中がしんとしてしまった。聞こえるのは、陽射しの中で遊ぶアーニャの無邪気な声ばかりだ。
 沈黙を破って、ステファンがおずおずと訊ねた。
「ぼくのお母さんて……不幸なの?」
「あ、いや。オスカーがそう言っただけで、実際にそうだとは……」
「不幸って何? ぼくがこんな力を持っちゃったってこと?」
 ステファンはオーリの袖を引っ張って真剣な顔を向けた。
「ばかな」
 オーリは驚きながらたしなめるように首を振った。
「君のことじゃないよ。そんな心配をするなら、この話はやめよう。こら、離しなさい」
 だがステファンは鳶色の目を真っ直ぐオーリに向けて食い下がった。
「言いかけた話を途中で止めるのは男らしくないってお父さん言ってたよ。
それにぼくのお母さんのことなんだから、ちゃんと知りたい! 
手紙のことだって変だよ。封筒は? 一緒に焼けたんじゃないんだね? 
消印がどうの、って前に言ってたけど、なぜ一度も見せてくれないの?」
 たたみかけるように質問を浴びせるステファンの顔を、オーリはまじまじと見ていたが、やがて顔をしかめて銀髪をかきむしった。
「ああもう、そんなオスカーみたいな目をするな! わかったよ、順を追って話すから! まったく君ら親子ときたら……」 
「確かにオスカーとそっくりだ。いい弟子を持ったな、オーリ」
 茶々を入れるユーリアンをひと睨みして、オーリは目の前の冷めたお茶を一気に飲み干した。
「いいかステフ、まず謝っておこう。封筒なんて最初から無い。だから消印の話もでたらめだ。あの手紙は、オスカーがこっそり飼ってたガーゴイルが運んで来たんだよ」
「ええ?」
 すっ頓狂なステファンの声に、ユーリアンが身を乗り出した。
「じゃ、差出人の住所の話は?」
「それは本当にわからないんだ。少なくとも自宅近くからじゃない。オスカーと連絡を取れなくなって何週間も経って届いたし、ガーゴイルの足にあの近辺にはない泥が付いてたからね。だけど“使い魔” だの “ガーゴイル” だの、一般人に言って通じるかい? 納得させようと思ったら、ああいう言い方をするしかなかったんだ」
 それはそうだろう、とステファンも思った。特に、ミレイユが相手では。
「先生、その手紙を運んだガーゴイルって、 今も居る?」
「居るには居るけど、もうなにも教えてはくれないよ。手紙を置いた途端にこと切れたんでね。ほら、うちの庭でウロウロしてるやつ」
 庭でウロウロ――“男爵”のことだ。ステファンは姿が消えたり見えたりするガーゴイルを思い出してぞっとした。まさか、幽霊だったとは……
「それからお母さんのことだが。む……」
 オーリは言いよどんだが、相変わらずのステファンの目に急かされるように言葉を継いだ。
「ステフ、亡くなった六人の伯父さんたちのことを聞いたことがあるかな」
「ええと確か、戦争とか、病気とかで次々に死んじゃったって」
「そう。だが一人だけ、屋根からの墜落事故で亡くなった人が居る。ウルリクという人だ」
 オーリは窓の外に目を向け、苦い表情をした。

 
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 ウルリク……聞きなれない名前にステファンは首をかしげた。
「君が知らなくても無理はないよ。屋根から落ちた時、ウルリクはまだ十歳にも満たなかった。六人の伯父さんの中でも――伯父さんというのは可哀想かな、死者は年を取らないから――一番早くに亡くなったし、ミレイユさんもこの名を口にしたことはなかっただろう」
 オーリは言葉を切ると、トーニャに目を向けた。
「エレインに子守を任せてていいのか? ちょっと見てきたら?」
 ところがトーニャはちらっと庭を振り返ったただけで、席を立とうとはしない。
「人払いをするのが下手ね。それともミレイユの不幸話とやらが胎教に悪いとでも? ご心配なく、魔女はそんなにヤワじゃないから。さ、続けて」 
 オーリは諦めたように息をつくと、これは全てオスカーから聞いた話だけど、と前置きしてから語り始めた。
 
 ウルリクはミレイユより一つ上の兄だ。リーズ家の他の子供と同じく魔力を持ってはいたが、おとなしくて体が弱かったので、ミレイユとは似たような立場だった。上の兄姉にいじめられると、二人は花壇の隅だの屋根裏だのに逃げ込んでは、一緒に空想のお話を作って現実の憂さを忘れた。ミレイユにとってはただ一人の味方だったと言える。
 ところがウルリクが十歳になる直前、突然彼は空を飛んでみせると言いはじめた。またいつもの空想話だろうと思ったミレイユが飛ぶところを見せて欲しい、とからかうと、ウルリクは他の兄姉が寝静まった後、ミレイユを連れて屋根裏から外へ出た。そして――

「飛んだの?」
 ステファンは聞かずにはいられなかった。
「ああ。ほんの数秒間、確かにミレイユの目の前で飛んでみせたそうだ。でもその直後……」
「落ちたのね」
 あっさりと言葉を継ぐトーニャに、オーリは眉をしかめた。
「ミレイユさんは泣きながら他の兄姉を起こしたところまでは覚えているが、その後のことは覚えていないそうだ。気が付けば家族は嘆きつつも、勝手に結論を出していた。事故の前日に煙突掃除夫が屋根に上がるところをウルリクは面白がって見てたから、きっとその真似をしようとして、足を滑らせたのだろう、と。
ミレイユさんは何度も本当のことを告げたが、誰にも取り合ってもらえなかった。
ステファン、事故なんだよ。家族の出した結論はある意味正しかった。夢見がちな子供が空を飛ぶ真似をした、そして運悪く墜落死した。八歳の女の子がそれを止められなかったからといって責めを負うべきではない」
 ステファンはうつむいて膝の上でこぶしを握り締めた。 
「でもミレイユさんは自分を許せなかったんだろう。彼女はそれから、絵本やおとぎ話の本を全て捨てた。玩具の動物も、一つだけ持っていた人形も。彼女にとっては、兄が持っていた魔力はもちろん、子供らしい夢や空想ですら、罪悪と同じ意味を持つようになったようだ。彼女はわずか八歳にして、現実しか見ない、信じない生き方をするようになった。ウルリクを野辺に送った時、ミレイユさんは自分の童心も一緒に葬ってしまったんだね」
 窓のカーテンを揺らして風が吹いてくる。風が運ぶアーニャの笑い声に、ステファンは耳を塞ぎたくなった。
 
「そう、それが“最大の不幸”と言うわけ。珍しくもない。そんな話なら魔女の間ではザラにあるわよ」
 冷めた口調で言ってのけるトーニャをユーリアンは慌ててたしなめた。
「トーニャ! ステファンの前でそんな……」
「いいよ、ユーリアンさん」
 ステファンはやや青ざめた顔をキッと上げた。
「先生は、だからお父さんが魔法で嫌な記憶を消したって思うんだね。でもぼくのことは? ぼくの魔力とウルリクは関係ないでしょう」
 オーリは重い表情でステファンの頭に手を置いた。
「ステフ、君はウルリクに似たところがあるそうだ。その茶色い髪といい、本ばかり読んで空想癖のあるところといい、ミレイユさんは君が成長するにつれて、どうしてもウルリクの姿とダブってしまうようになった。やがて君に魔力があることがわかると、毎夜悪夢にうなされて、しばしばオスカーに泣きながら言っていたそうだ。あの子はきっと十歳まで生きられない、ウルリク兄さんのようにいつか手の届かない場所へ行ってしまうに違いない、とね」
 ステファンは唇をかんだ。母がヒステリックに叱る時、そんな思いをしていたとは知らなかった。
「ねえトーニャ。母親が自分の子供の成長を喜べず、むしろ恐れてしまう、そういうのは不幸とは言わないのかな?」
 オーリの問いかけに、トーニャは片眉を上げただけで答えなかった。
「わたしはオスカーに癒しの魔法をいくつか教え、医者に行くことも勧めたよ。だから七月にステフを迎えに行った時、ミレイユさんが別人のように元気にまくしたてるのを見てホッとしたぐらいだ。あれが忘却魔法のせいだったとは……」
「大変だ!」
 ステファンは突然立ち上がった。
「もう魔法は解かれちゃったんだ。お母さんはウルリクのことを思い出して、また泣いてるよ、きっと!」
「そうかしら」
 トーニャが指先の紅い爪をひらりと舞わせて、暖炉の上から手鏡を引き寄せた。
「その心配は無いようよ。ミレイユはもう行動を起こしてる。見なさい、ここはどこかしらね」
 手鏡を覗き込んだトーニャは、ステファンを手招きした。
 ステファンが手鏡を覗くと、そこにはパラソルを差したミレイユの姿が映っていた。強い意志を秘めた顔で、彼女は古い館を見上げている。
「ここはたしか……おじいちゃんの家だ。一番恐い伯母さんが住んでるはずだよ。なんでお母さんが?」
 
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「実家に行ったのか。戦闘開始というわけだ。やるじゃないか、ミレイユ母さん」
 オーリもまた手鏡を覗き込んで、ニヤッと笑った。
「戦闘って?」
「前に言ったろう、ステフ。誰だって辛い事を抱えている、けど自分で解決するしかないって。君のお母さんは八歳の時の記憶に立ち向かいにいったんだよ」
 ステファンは手鏡を見つめた。館の中から出てきたのは、母が一番恐れる、ステファンの一番嫌いな伯母だ。久しぶりに訪ねてきた妹を抱きしめもせず、相変わらず意地悪な目つきで見下ろしている。けれどミレイユは臆することなく細い顎を上げて真っ直ぐに階段を昇り、館の中に消えていった。
「お母さん、大丈夫かなあ」
 心配そうなステファンの肩をオーリがポン、と叩いた。
「あの様子なら心配ないよ。ステフ、優しいのはいいけど、君はそろそろお母さんから離れなくちゃ」
「え、今離れてるでしょう?」
「住む場所のことじゃないよ」
 オーリは笑ったが、ステファンは首を傾げるばかりだ。
 
 お茶のお代わりを、とトーニャが立ち上がりかけたが、ユーリアンはそれを止めて自分でポットを持ってきた。
「オスカーが辞書を使った目的は、おそらくオーリの言うとおりだろう。辞書に書き込めるのは一人一項目に限られている。オスカーは何にも優先して“魔法”に関するミレイユさんの悲しい記憶を消したかったわけだ。けどわからないのはこの手紙だ。文面からすると、自分が帰れなくなることを予測しているようじゃないか」
 慣れた手付きでお茶を淹れるユーリアンに、オーリはうなずいた。
「正直、この手紙を受け取った時は焦ったよ。オスカーの身に何があったのかと。あちこちに協力を求めて探索魔法も……ガーゴイルの足に付いていた粘土も調べてもらったよな?」
「百遍も調べたよ。でもオスカーにはつながらない。お手上げだ」
「あのう……」
 ステファンが顔を上げた。
「警察に探してもらうとか、しないんですか?」
 大人たちは互いに顔を見合わせ、笑いをこらえるような、悲しいような表情をした。
「ああ、一般の人なら当然そうすべきだろうな。でもできない理由がふたつある。
まずミレイユさんが望まない。意地になってるのかもしれないな。
そしてもうひとつ、オスカーの手掛かりを探すとなると、どうしても“魔法”がらみになる。ほら、この辞書も。でも“魔法”も“魔法使い”も表向きは存在しないことになってるんだから、そんなややこしいことには警察もタッチしたくないだろうね」
「我々の探索魔法のほうがが早い、とはっきり言っていいんじゃない? オーリ」
 トーニャが手鏡を爪で弾いた。ミレイユの映像は消え、変わりにゆらゆらと青白い光が踊り始める。
「さあ、じゃ時間を追って整理してみましょうか。オーリ、オスカーが辞書を借りに来たのは二年前の聖花火祭の夜、そうね?」
「ああ、間違いない」
「で、ステファン。オスカーが家を出たのは?」
 ステファンは無言でうつむいた。思い出したくない。けど、思い出さなければいけない。
「翌日だよ、十一月の六日。ぼくの九歳の誕生日だったから、忘れようがないもん」
 部屋の中が、また微妙な空気になってしまった。ステファンは慌てて顔を上げた。
「あ、でもお父さんはちゃんと誕生パーティをやってくれたよ。プレゼントもくれたんだ。大きな靴! 大きすぎてすぐには履けないって、お母さんが文句言って、それから……」
 それから。きっと夜遅くに一人、オスカーは出かけたのだ。愛用のトランクも持たず、家族にも何も言わず。翌日ミレイユは、玄関扉が開いたことすらわからなかったとこぼしていた。
「それから……」
「ステフ、もういい」
 オーリの手が肩に置かれた。あたたかい。ステファンはふと泣きそうになったが、息を吸い込むと、腹に力を込め、奥歯をかみしめた。もう泣き虫はいやだ。“かわいそう”なんて思われたくないし、だいいち保管庫の中でさんざん大泣きしたことは、オーリに――もしかしたらトーニャにも――知られている。両親のことを思い出すたびにメソメソ泣く情けない奴だとは思われたくない。
「まあ、なんだ、ステファン。考えようによっちゃ、オスカーは二年分まとめてプレゼントをくれたようなものさ。ミレイユさんはもう余計な不安に悩まされなくなったし、君はオーリに弟子入りできたんだから」
 かなり苦しいフォローだ。けれどユーリアンの言葉は嬉しかった。
「それで、手紙が届いたのが十二月ね。それ以降一切連絡は取れていない」
 トーニャの声はあくまで冷静だ。オーリは息をついて、ああ、とだけ答えた。
「さて、どこかに糸口はあるかしら」
 紅い爪がひらひらと踊る。鏡の光がいっそう明るくなると、トーニャは首にかけていた水晶のペンダントを掲げた。光は一本の筋となり、ペンダントの水晶に吸い込まれていく。
「ハイ、じゃあこれ。今まで集めた情報が全部入ってるから」
 トーニャはペンダントを外し、オーリに手渡した。
「なんだよ、分析してくれないのか? それをあてにして来たのに」
「甘えるのもいいかげんにしなさい。それに今のわたしじゃこれが限界。お腹のベビーの魔力が干渉して、難しい魔法は使えないの」
「え、お腹の中、って。生まれる前から魔力があるんですか?」
「当たり前よ。小さい子ほど魔力が強いの。それに子供は親とつながってるけど、人格は別。だから魔力のタイプが違うと、ぶつかって大変なのよ」
 不満そうにペンダントを見るオーリを赤い爪が指差した。
「ここから先は、私よりも適役が居るでしょう、辞書の前の持ち主が。逃げずに頼んでごらんなさい」
 オーリは観念したようにため息をついた。
「どうしても会わなきゃいけないか――大叔父様に」

 
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「大叔父様か。 来月誕生パーティをするとかいってたな」
「ああ。パーティは我慢するとしても苦手だな、あの人は……トーニャも人が悪いよ、こんなペンダントを渡してわざと大叔父に会わせようとしてるんじゃないだろうな」
「嫌なら手を引きなさい、駄々っ子」
 トーニャはぴしゃりと言った。
「あなたはオスカーの身内でも親族でもないんじゃないの。中途半端に騒ぎ立てて、折角チャンスを提供してあげても“苦手”とか言って逃げ腰になるんなら、いっそもう関わらないほうがいい。ステファンだって迷惑でしょうよ」
「そんな!」
 焦って立ち上がったステファンを手で制して、トーニャは続けた。
「オーリ、あなたはなぜオスカーを探しているの。親友だから、ステファンの父親だから、義務感で?」
「違う。心配でやむにやまれないからだ、他に何がある!」
 キッと睨んで言い返すオーリの周りで、青い火花が散る。
「そう、やむにやまれない力、わたしたちはいつもそれに動かされている。だったら、自分のプライドになんかこだわってる場合じゃないでしょう」
 ステファンは息をつめてオーリを見上げた。 
 青い火花はもう収まっているが、オーリは何か迷うように、テーブルに視線を落としている。
「気軽に考えろよ。僕は行くつもりだぜ、そのパーティとやらに」
 ユーリアンが足を組み替えながら明るく言った。
「おい本気か?」
「本気もなにも。トーニャを一人で行かせるわけにはいかないだろう。ああ、君たち北方移民の一族が植民地出身の僕を快く思っていないことくらい知ってる。結婚する時だってボロクソに言われたしね。だからって何だ? 僕だってれっきとしたソロフ師匠の弟子だ、北も南もあるか。悪口と嫌味の集中砲火を浴びたって、命まで取られるわけじゃあるまい」
 快活な笑い声が部屋に響いた。褐色の笑顔に白い歯が形よく並ぶ。トーニャは同志を見る目つきで夫に微笑み、オーリに向き直った。
「どうするの? ここであきらめるのも自由よ」
「まさか」
 オーリはひきつった笑みを浮かべた。
「オスカーのためだ。ここまで来てあきらめられるか。ああ、行こう、大叔父に会いに」
 ステファンはホッとして一同を見回した。
「ありがとう……」
「おいおい、礼を言うのは早いぜ。まだ何も解決してないんだから。オーリ、当然お前はエレインと一緒に参加するよな? ちゃんと正装しろよ」
「え、エレインと?」
 オーリはお茶を飲もうとしてむせかえった。
「パーティには女性をエスコートして行くのが常識だろうが。ああ今から言っておくか? おおーいエレ……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」 
 再び赤くなってオーリが立ち上がった。
 
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 一緒に庭を振り返ったトーニャが、突然顔をひきつらせて叫んだ。
「アーニャ! だめ!」
 庭先では、小さいアーニャがロバの縫いぐるみにまたがってフワフワと飛んでいる。まるで風船のようにたよりなく、それは屋根の高さに届こうとしている。
 ユーリアンは庭に飛び出し、豹のように高くジャンプして縫いぐるみごとアーニャを捕まえた。
「こーら、オテンバめ。ロバさんを飛ばしていいのはお家の中だけだって言ったろう」
「や! や! もっととぶの!」
 アーニャはそっくり反って暴れ、縮れっ毛の頭から帽子を振り落とした。
「ああごめん、あたしがちょっと目を離した隙にあんなに高く……でも魔女なんだから飛ぶのは普通でしょ? いけないの?」
「街ではいけないのよ。電線もあるし、先月なんか隣の男の子にパチンコ玉で狙い撃ちされたんだから」
 小さな娘をユーリアンから受け取って抱きしめるトーニャは、微かに震えている。
「アーニャ、パパはね、今にオーリおじちゃまみたいに田舎に家を構えるよ。そしたら好きなだけ飛んでいいから、それまではちょっとガマンだ。ごめんな」
 ユーリアンは膝を屈めて、自分に似た縮れっ毛の頭をなでた。けれどアーニャは口をとがらせていやいやをするばかりだ。
 せっかく飛ぶ力を持っているのに……ステファンはアーニャの中のはちきれそうな思いが見える気がした。
 帽子を拾って小さな頭に乗せてやると、アーニャはきょとんとして黒ブドウのような目を向ける。つまんないよね、とステファンは心の中でつぶやいた。するとアーニャはそれが聞こえたかのようにぱあっと表情を明るくし、トーニャの腕をすり抜けて、ステファンの手を引っ張った。
「アーニャ、おにいたんとあとぶ……」
 ステファンは思わず笑った。
「うああ変わり身の早いやつめ。パパと、じゃなくて“おにいたん”とかよ。よし、じゃ一緒に遊ぼう」
 
 四人が庭でボールを転がし始めたのを見て、トーニャはホッと息をつき、庭の見える位置に腰掛けた。
「あの様子じゃ、パーティの日のシッターを雇うのも一苦労だわ」
「まったくだ。おかげでこっちはユーリアンのおせっかいから逃げられたけど」
 オーリはトーニャのすぐ隣に立って苦笑いをした。
「魔女もいろいろ大変だな。人の心は平気で操作できるくせに」
「あら、なんのことかしら」
 トーニャは元の落ち着いた顔に戻って、しらっとして答えた。
「まあ、お陰でふんぎりがついたけどね、策士だな。さっきの手鏡だってタイミングが良すぎるよ。事前にミレイユの行動を調べていたとしか思えない」
「ふふ、どうだか。オーリこそ、人づてに聞いた話にしてはミレイユの記憶を随分細かく覚えてたのね。まるで自分が直接見てきたみたいに」
 ぐ、と言葉に詰まって、オーリは眉を寄せた。
「お察しの通り、オスカーに頼まれて直接、記憶を読み取ったんだよ。仕方がないだろう、オスカーにはそこまでの力は無かったんだから。親友の頼みでなけりゃ、あんな愚痴と悔恨だらけの記憶を読むなんて二度とゴメンだね。ステフがよく歪まずに育ったもんだ」
「子供はもともと、真っ直ぐに育とうとする力をもっているのよ。あとは関わる人しだい。自分もそうだったでしょ」
 トーニャは自分の隣に立つ背の高い従弟を見上げた。
「家族を失って泣いてばかりだった痩せっぽちの子が、今やガルバイヤン画伯、だものね。二十年前に誰が今のオーリを想像できて?」
「“画伯”ってのは嫌味か?」
 オーリは横目でトーニャを睨んだが、すぐに表情を和ませた。
「ああ、トーニャの両親にも、ソロフ師匠にも感謝しているよ。親代わりに守ってくれたし、鍛えてもくれた。おかげでオスカーやユーリアンのような親友にも出会えたんだ。だけど僕がステフに同じものを与えられるかどうかは――甚だ自信ない。正直、弟子なんて一生要らない、と思ってたからな」
「よく言うわ。うぬぼれ屋のくせに」
「うぬぼれてるって? 僕が?」
「そうよ。保管庫の件も、辞書の件にしてもそう。魔法使い以外の人間が高度な魔法を使えるなんて思ってもみなかったでしょ。ステファンやオスカーの魔力を甘く見てたせいで、騒動を起こしたんだって自覚してる?」
 容赦ない従姉の言葉にオーリは反論しようと振り返った。
「そうは言っても……いや、たしかに……あ、そうかもな。そういえばアガーシャが脱走した時も……」
 次第に小声になり、叱られた子供のようにしゅんとしてしまった。
「まあそれが悪いとは言わないわ。魔法使いは自信過剰くらいがちょうどいいのよ。少なくともステファンの前では堂々としてなさい“オーリ先生”」
 バシッと背中を叩かれて、オーリは目をしばたたき、改めてトーニャを見た。
「かなわないな、トーニャ姉さん。魔女ってのはどうしてこうたくましいんだろ」
 
 オーリは庭に出て、エレインに帰る時間が来たことを告げた。リンゴの葉陰で向かい合うオーリの銀髪とエレインの赤毛が綺麗なコントラストを描きながら風に揺れる。
「“姉さん”か。実の弟なら、お尻を蹴飛ばしてやるわよ。もっとしっかりしろって」
 トーニャはつぶやくと、まだ遊びたそうなアーニャの手を引いて部屋に戻った。
 
 
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 帰りの汽車は空いていた。エレインは来る時と違って緊張感がほぐれたのか、六人掛けのコンパートメントの窓際に陣取ると、他の乗客のいないのをいいことに、またしてもあれは何、これは何と質問の雨を降らせた。
 十何回目かの「あれは何?」の後、ふいにエレインが黙り込んだ。オーリの手が額に向けられている。ステファンが驚いている前で、緑色の目を閉じてがくりと首を垂れる。
「うるさいから眠ってもらったんだ。これでゆっくり本が読める」
 オーリは平然とそう言うと、文庫本を取り出して開いた。
 書庫から持ってきたのか、随分と古い本だ。黄ばんだページをめくるオーリに、ステファンは前から思っている疑問をぶつけた。
「それ普通の文字、だよね」
 問われた意味がわからない、という表情でオーリが目を上げた。
「魔法使いにしか読めない文字って、どんなの? お父さんの手紙を見たって普通のアルファベットにしか見えないんだけど」
 オーリはうなずいて、静かな声で答えた。
「そうだよ。普通のアルファベットだ。ただし、インクに魔法が掛けられているから魔力の無い人には読めない。うちではアガーシャが守っている、あの特種インクだ。昔、魔法使いが迫害されていた時代に、自分たちだけで秘密の連絡が取れるよう作られたのが始まりと聞いている。オスカーは万年筆に入れて使っていたな」
「迫害されてたって……むかーしの魔女裁判みたいに? じゃ、今は?」
 ステファンを安心させるように、オーリは笑みを向けた。
「大丈夫、君が心配することはない。この国は魔法使いを公式には認めない代わりに否定もしない。だからわたしの一族は、祖父の代に北方での迫害を逃れて移り住んだんだよ。オスカーは遺跡を調査しながらそういう近代魔法の研究もしていたな……そう、エレインの一族のことも、オスカーを通じて知ったんだっけ」
 オーリは眠るエレインを振り返った。
 眠ってしまうと、エレインは意外と幼い顔をしている。向かいの席からその寝顔を見て、ステファンは首をかしげた。女の人の年齢なんてよくわからないが、竜人となるとなおさらだ。大酒を飲んだりオーリと対等な口をきいたりしているから随分大人のように思っていたが、エレインはもしかしたらとても若いのかも知れない。たった一人で人間の中に居て、彼女は寂しくないのだろうか。
 
 汽車は瞬く間に街を抜け、青々とした丘に差しかかった。少し勾配があるせいか、眠るエレインの身体は危なっかしく揺れる。オーリはそれを支えて赤毛の頭を自分の肩にもたせかけた。
 窓の外に木立が現れる度に陽射しと影とが交互に降る。オーリは時々本から目を上げ、肩の上の寝顔を見て微笑んだ。
 見ているステファンのほうが気恥ずかしくなるような表情だ。どうにも居心地が悪くなってきた。もしかして、いやもしかしなくてもこの場合、自分はおじゃま虫じゃないのか?
 ステファンがどこかへ逃げたくなってきた頃、ゴトゴトと音がしてコンパートメントの扉が開いた。
「ああ、こちらは静かだこと。ご一緒してもよろしいかしら?」
 ピンク色のホイップクリームが、いや、ピンクの帽子とスーツを着込んだ太った老婦人が、大きな鞄と共に立っていた。
「もちろんですよ。ステフ、手伝ってあげなさい」
 ステファンは立ち上がると、老婦人が鞄を網棚に持ち上げるのを手伝った。
「いえね、さっき座ってたところは外国人客が騒がしくて……あら、失礼」
 老婦人はオーリの顔立ちを見て外国人とでも思ったのか、慌てて口元を押さえた。
 オーリは気にするふうもなくニコリと笑顔を向けて再び本に視線を戻す。
 なんとも間が悪い。ステファンは席を立つタイミングを失って隣をうらめしく見た。そんなことにはお構いなくハンカチで汗を押さえていた老婦人は、窓からの風を受けてクシャミをした。
「お大事に」
 すかさずオーリが言うと、老婦人は丸い顔いっぱいに笑顔を見せた。
「ありがとう。まああー、あなたのお国ではそういう長髪になさるの? 絵になるお二人ねえ」
 そしてエレインを見ながら楽しげに言った。
「奥様も、お綺麗で」
 オーリは本を落っことしそうになった。
「お、奥様って?」
 さっきまでの落ち着きが嘘のようにうろたえている。
 ステファンは思わず口をはさんだ。
「まだ式はこれからなんです」
 オーリは目を白黒させているが、ステファンは構わず続けた。
「ええと、今から田舎に帰って結婚式の準備をするとこ。ね、先生」
 自分でもよくすらすらとデタラメが言えたもんだと思いながら、ステファンは冷や汗を浮かべた。
 オーリはわかってないだろうけど、この二人が並んでいると嫌でも人目を引く。来る時だって、何度もじろじろ見られたし、そのうちエレインの正体に気付く人が居るのではないかとヒヤヒヤしっぱなしだった。ちょっと言い過ぎたかもしれないけど、ここは相手の勘違いに便乗しちゃったほうが安全じゃないのか、と思ったのだ。 
 老婦人は指輪のない二人の手に視線を移して納得したのか、ゆったりと微笑んで言った。
「あらあ、それはそれは。やだわね、早とちりしてしまって、ごめんなさいねえ。でも田舎のご両親はさぞお喜びでしょう?」
「はあ……」
 こういう時、いつもなら軽口のひとつも叩くオーリが、ただ顔を赤くして口ごもっている。ダメだな先生、とステファンは上目遣いに睨んだ。
 老婦人はピンクの帽子をかしげてまだつくづくと二人を見ている。
 窓からの風は涼しいのに、ステファンの背中には冷や汗がどっと出てきた。どうしよう、エレインってそんなに、普通の人間と違うのかな。
 けれど老婦人の興味は別のことに向いていた。
「当ててみましょうか。あなた絵を描いていらっしゃるでしょ」
 オーリはぎくりとして思わずステファンと顔を見合わせた。
「ええまあ、少し。よくお判りですね」
「ああやっぱり? うちの孫と同じ手をしていらっしゃるもの」
 子供のように両手を打ち合わせて、老婦人は嬉しそうに笑った。
「お孫さん、絵描きさんなんですか?」
「いえね、まだ画学生なんだけど、小さい頃から絵の上手い子で。街の大きな美術展で一等賞を取ったこともあるのよ」
 老婦人はそれからひとしきりじゃべり続け、あの子は天才だ、将来は絶対有名になる、などと孫をほめちぎった。目の前に座っているのがプロの画家だと知ったらどうするかな、と思うとステファンはおかしかったが、とりあえず話題がエレインから逸れたのはありがたい。オーリが面白そうに相槌をうっているので、それにならって黙って聞くことにした。
 汽車はその間にも、緑の牧草地を越え、渓谷を越え、夕風が吹く頃に着いた駅で老婦人は立ち上がった。
「じゃあさようなら、おかげで楽しい旅でしたわ。眠り姫さん、お幸せにね」
 まだオーリにもたれて眠ったままのエレインにも手を振って、老婦人は降りていった。

「ふう。参ったな」
 再び汽車が動き出してから、二人はやっと安心して息をついた。
「先生、今の人って魔女だと思う?」
「いや、そんなことはない。でもマーシャといい、今のご婦人といい、魔力はなくても勘の鋭い人ってのは居るもんだ。絵のことを言われた時は驚いた。エレインの正体まで見抜かれるかと思ったよ」
「そうだよ。なのに先生ったらモゴモゴ言うばっかりだしさ。焦っちゃったじゃないか」
 口を尖らせるステファンに、オーリは参った、という顔で笑った。
「そう、君の機転には感謝してるよ。“生真面目くん”としては上出来のホラ話だった」
 眠るエレインをよそに、二人は大笑いした。
 けれどもうじき三人の降りる駅だ。オーリは魔法を解くために再びエレインの額に触れながら、急いで言った。
「あ、ステフ。さっきからの会話は、エレインには内緒だ」
「いいけど……」
 別に内緒にしなくったっていいのに、とステファンは思った。老婦人にはとっさに言いつくろったが、そうなったらいいな、と思っているのも事実だ。両親がバラバラになってしまった今、せめてオーリたちにはずっと仲良しでいてもらいたいと、弟子のステファンが願ってはいけないだろうか。
 それにあの老婦人の言うとおり、二人は並んでいると本当に絵になるのだ。大叔父様のパーティでは、さぞかし周りの目を惹くことだろう。
  
 ステファンのとりとめのない思いに「終了」を告げるように汽車は汽笛を鳴らし、やがて田舎の駅に滑り込んだ。
 
 
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 小さな駅で降りると、乗り継ぎの列車を待つ人が数人いるばかり。
 荷物のカートを押す少年が、最後尾の貨物車に向かっている。
 煤けたレンガの壁と白い窓枠が可愛らしい駅舎では、大荷物をひっくり返した客が出口を塞いで駅員ともめていた。改札もない駅だし帰りを急ぐこともない。三人はじゃれあうように騒ぎながらのんびり待っていた。
 その時だった。
「おいっ、竜人! 何をしている」
 突然野太い声が背後から聞こえ、三人は凍りついた。
 オーリはエレインを背でかばうように立って振り向いた。上着に手を掛け、いつでも懐から杖を取り出せるようにしている。
「お前が乗るのは貨物車だ、なぜ客車に乗ろうとする!」
 声の主が怒鳴りつけているのは、さっき荷物を運んでいた黒髪の少年だった。
 鼻から頭頂部にかけての骨格が平べったく、爬虫類を思わせる顔立ちだ。エレインとは違う種族のようだが、ひと目で人間でないことはわかった。
「僕は、荷物ではありませんから」
 まだ十四、五であろう少年は、言葉少なく、しかしはっきりと答えた。
 随分痩せている。上着越しでもわかる骨ばった肩が痛々しい。
 くたびれた従僕の服は短く、袖から出た腕には幾すじもの傷跡が見える。
「ほう、荷物でないなら家畜か。丁度いい、鶏のカゴが積み込まれているそうだぞ。その隙間に乗るがいい」
 傲慢な口調で見下ろす男は、口ひげを歪めて笑った。でっぷりと太った腹の上で、チョッキの金鎖が揺れる。少年は澄んだ金色の目を向けて冷ややかに返した。
「旦那様の犬は、客車でよろしいのですか?」
 男の手に提げたバスケットが揺れた。ふわふわの白い毛と共に鼻を鳴らすような声が聞こえている。
「おお、エメリット、よしよし……当たり前だ、犬は家族だが竜人は家畜扱いと昔から決まっておろう。さっさと貨車に乗れ、汽車が出ちまうだろうが!」
 エレインが靴の片方を脱いで手に持った。何をしようとしているのか察したステファンは、慌てて腕を押さえた。
「こらえろ、エレイン」
 ほとんど口を開けずオーリが低い声で言った。
「何をこらえろって?」
 エレインはオーリを押しのけようとして、何かに阻まれたように動きを止めた。
 背中を向けたままのオーリから青い火花が散っている。目に見えない壁がエレインを取り囲んでいるのがステファンにも感じとれた。
「あの男は魔法使いだ。竜人の存在を公然と口に出しているところを見ると、役人か軍関係の奴だな……恥知らずめ」
 髭の男を睨むオーリの奥歯がギリッと鳴った。
 
「僕は竜人です。荷物でも、家畜でもありません」
 少年の毅然とした声が駅舎に響いた。が、次の瞬間、少年は壁に叩きつけられた。
「つまり、それ以下ということだ!」
 男は黒い杖を少年向けて吼えた。
「おぞましい竜人め、 誰に生かされていると思っている! 誰が魔力を与えているんだ、ええ? お前らは竜ですらない化け物だろうが。仲間と共に剥製にされるところを拾ってやった恩を忘れたか!」
 エレインが声にならない叫びをあげた。顔がみるみる蒼白になる。
 頭を振って立ち上がろうとした少年は、何かに引っ張られたかのようにバランスを崩した。
 その時になって初めてステファンは、少年の足が鎖を引きずっているのに気が付いた。おそらくは普通の人には見えない、魔力で作られた鎖だ。
 背筋が寒くなった。周りで見ている人間は誰一人、少年を助けるどころか同情の目すら向けていない。
「竜人だってさ」
「おお、汚らわしい。さっさと管理区に行けばいいのに」
 周りからさざ波のように声が聞こえる。エレインをこの場に居させてはいけない、そう思ったステファンは腕を引っ張った。
「わかったら、さっさと貨車に乗れ。生きる道も死ぬ道も、お前には選べん。契約に縛られている限りはな」
 髭をひねり、薄笑いを浮かべた男を金色の瞳が睨んだ。少年の口元が動こうとする。
「――いけない!」
 オーリがつぶやいた刹那、駅舎の天井に眩い光が走った。と共に髭男のすぐ脇で電燈が割れ、電線が一部切れて火花を散らしながら蛇のようにのたくった。
「お客さん、困りますよ! こんなところで魔法を使うなんて」
 駅員らしき人が飛び出してきた。
「な、なにを、ヒイッ、ちがう、わしは、アチッ」
 だがその手に杖が握られているのを見て、誰もが非難がましい声を浴びせた。髭男は電線の蛇から逃がれようとぶざまに飛び跳ねている。

 いつの間にか出口を塞いでいた荷物がどかされ、ポカンとした客が事の成り行きを見ていた。
「行こう」
 オーリは上着に杖をしまい、蒼白なエレインの肩を抱いて駅舎を出た。

 
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 駅を出てしばらく歩いた後、突然エレインはオーリの腕を振り払った。
「なんで黙って見てたの、なんであたしに殴らせなかったの! あんな男、首をへし折ってやればよかったんだ!」 
 両手のこぶしを握り締め、緑色の炎を宿した目を光らせている。
「ああ、いいね。奴のだぶついた首をへし折ったら、さぞいい音がするだろ」 
 オーリは憮然としたままで答えた。
「そして? 君は捕らえられて処分されるのか? それとも管理区行きか?」
「知らないよ、そんなこと!」 
 風がエレインの帽子をさらっていった。白い花飾りがちぎれ、砂ぼこりにまみれる。
「あの子を見たでしょう? 禁じられた呪詛の言葉を言おうとしていた。 まだ子供なのに! 相手を呪うことで、自分も命を落とす罰を受けるのに! どんな思いでそうしたかわかる?」 
 呪詛。そうだ、あの時少年の口元が動いていたのはそのためか。ステファンは思い出してぞっとした。
「わかるさ。だからわたしが止めた。駅という公共の場所で魔法を使った、そういう意味じゃ、あの男と同罪になったけどね」
「嘘だ、人間にはわからない。奪う側の奴になんか、わかるわけない!」 
 言い捨ててエレインは早足で歩き出した。オーリが後を追う。
「エレイン、どこへ行く? 家はそっちじゃないだろう」
「誰の家よ?」
 肩を捉えた手が払いのけられる。
「竜人の居場所なんてもうどこにも無い。契約という鎖に縛られて、魔力を与えられなければ生きていけない化け物、ええそうよ!」 
 赤毛を跳ね上げたエレインは、手袋に気付くと、忌々しげにむしりとって地面に叩きつけた。
「こんなもの!」 
 オーリは眉をひそめると、走り出したエレインに杖を向けた。光の輪に捕らえられ、エレインはびくっと立ち止まった。 
「頭を冷やすんだ、守護者どの。君はさっきの少年の怒りに影響されてる」 
 オーリは大きな歩幅で追いついた。それを肩越しに振り返る緑の目に、怒りに満ちた光が揺れる。
「エレイン、一緒に帰ろうよ。風が冷たくなってきたよ、雨がふるかもしんない」 
 走って追いついたステファンは、懇願するようにエレインの手を引っ張った。 
 けれどエレインが怒りを収める様子は無い。緑色の目をますます大きく開いて、オーリを睨み据えた。
「そう。こうやって、竜人を狩ったんだ」 
 凍りつくような声だった。オーリが顔色を変えた。
「こうやって動きを封じて! 神聖な新月を狙って攻め込んだんだ、人間は!」 
「それは……」
「あたしは知っている。魔法使いは竜人狩りの尖兵だったんだ!」

 幾筋もの閃光が、雲の上で走った。
 いつの間にか雷雲が空に満ちている。
 竜人狩り? 尖兵? エレインの言っている意味がわからずステファンはオーリに問うように目を向けた。
 青ざめた顔のまま、オーリは乾いた声で答えた。
「そうだ。その通りだ」
 
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 鈍(にび)色の雲が低く垂れ込める下で、昼間とも思えないほど辺りは暗くなってきた。三人の立つ道には人通りもなく、道の脇には丈の長い草に覆われた岩が、あちこちで墓標のように白く顔を覗かせている。
 
 ステファンは震えた。オーリはエレインと目を合わせず、苦い表情をしている。
「先生、どういうこと?」
「――ステフ、エレインを見るまで、君は“竜人”というと半人半獣のような姿を想像してはいなかったか?」
 ステファンは顔を伏せた。じつは、そうだ。だって絵本やおとぎ話に出てくる竜人は、たいてい恐ろしい人喰いの怪物として描かれているのだから。
「あれは、故意に作られたイメージだ」
 オーリは言葉を続けた。
「ドラゴンにしてもそうだ。彼らを悪の象徴として描き、彼らを倒した者を英雄とする、そんな伝説が多いのはなぜだと思う? 人間が、自分達の侵略の歴史を正当化するためだ。
 竜人の力は偉大だ。魔法使いは、昔から契約によって彼らの力を借りてきた。お互いの尊敬の上に成り立つ契約のはずだった。けれど最初の大戦後、疲弊したこの国は、豊かな竜人の土地に目を付け、彼らの故郷を奪う大義名分として、“竜人は人を喰らう”というデマを流したんだ。伝説で刷り込まれてきたイメージを利用したんだろうな。
 大勢の魔法使いが臆面もなく“竜人退治”と称して、剣と槍しか持たない彼らを襲い始めた。それまで迫害される側だったのが、まるでうっ憤を晴らす手立てを見つけて小躍りするようにね。
 誇りを守って抵抗した種族は滅ぼされ、生き残った竜人も――さっきの少年を見たろう、ああいう酷い扱いを受けている」
「でも先生は違う! トーニャさんも、ユーリアンさんも。魔法使いがみんな酷いことをしたわけじゃないでしょう?」
「もちろんソロフ門下の魔法使いはこぞって竜人狩りに反対したさ。でも、竜人から見れば魔法使いなんて皆同罪だろうな……」
 そこまで言ってオーリはハッと顔を上げた。
「ステフ、離れろ!」
 オーリの視線を追ったステファンはぞっとして後ずさった。
 エレインの赤い髪がざわざわと逆立っている。風が悲鳴のような音を立ててエレインにまとわり付く。吹く風はしだいに小さな竜巻の形になり、エレインと同化する。目に見えぬ何かの意思が、エレインの中で撚り合わさっていく姿にも見えた。
「驕れる者たちよ……その尖兵たる魔の使いよ」 
 緑色の目が異様に光っている。口の端から出ているのは、彼女の声ではない。何人もが同時に発声しているかのように不気味な倍音を含んでいる。
「ばかな。契約の時にあの力は封印したはずだ」
 オーリは再び杖を向けようとしたが、赤い影が襲い掛かるほうが速かった。
 ステファンはオーリの体当たりを食らう形になり、そのまま地面に突き飛ばされた。
「愚かなり――人間よ! 汝が罪を恥じよ!」 
 振り向いたステファンの目にしたものは、長く鋭く伸びる竜人の爪だった。
 オーリの身代わりのように、人の形を留めた上着が切り裂かれた。その間に身を翻し、オーリは相手の後ろに回り込んだものの、瞬時に喉を掴まれて顔を歪めた。
「だめ! エレイン、だめ!」
 夢中で起き上がり、ステファンは青い紋様の手をオーリから引き剥がそうとした。が、もとより竜人の力にかなうはずもない。
「先生は竜人の味方だよ! 目を覚まして、エレイン!」
 けれどそこに居るのは、ステファンの知っている気さくな竜人ではない。ただ目の前の魔法使いに憎しみの全てを向けた、見知らぬ生きものの姿だ。
「同胞(はらから)を返せ! 我らが誇りをかえせ!」 
 恐ろしい声だった。噛み付くように叫んだ竜人は、そのまま魔法使いの喉を引き裂くかに思えた。必死にしがみつくステファンの目の端に、オーリが杖を向けようとするのが見える。
 ステファンは祈るように暗い空を仰いだ。雲と雲との間に稲妻が行き交っている。分厚い雲の向こうに何か大きな存在を感じる。何かとてつもなく大きなその存在は、下界の全てを冷ややかに見通しているようだ。ステファンは夢中で叫んだ。
「お願いだ! これ以上争わせないで!」 
 
 突然、空が裂けた。
 強烈な閃光の中、ステファンの目に巨大な緋色の竜の姿が映った。
 翼を持つドラゴンではない。稲妻が化身して命を宿したかのようなそれは、雲の中で身を躍らせ、はるかな高みから地上に光のつぶてを投げつけた。
 
 地響きと轟音。と共に、道の脇に点在する岩が次々に発光して砕けていった。
 エレインは何かを叫び、赤い巻き毛を揺らして膝を折った。 力を失った緑色の瞳が宙を見たまま、空っぽの表情になる。
 苦しげに咳き込みながらオーリもまた、エレインを抱えて力なく座り込んだ。 
「先生!」
 駆け寄ったステファンに、大丈夫だ、というようにオーリは手を挙げた。
「エレインは? 感電したんじゃ?」
「違う。トランス状態から脱出したんだ」
 オーリはエレインの顔を確かめるように上向けた。
 緑の瞳が空っぽの表情のまま、空を見ている。
 母さま、とその口元が動いたように見えた。
 
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「母さまって、さっきの竜のこと?」
「竜? 竜を見たのか?」
「だって! さっきカミナリを落としたじゃないか。翼が無くて、エレインの髪みたいに赤くて。あんなに大きな竜を見なかったの?」
 ステファンは驚いた。アガーシャの光がそうだったように、自分に見えてオーリに見えないものもあるのだろうか。
 オーリは重い雲の波打つ空を見上げた。
「雷を操る、翼の無い竜? まるでフィスス族が“始母”と呼んでいる竜のようだ。まさか、本当に居たのか? 伝説に過ぎないと思っていたのに……」

「先生、あの岩」
 ステファンはさっきの落雷で砕けた岩に目を留めた。何かとてもいやなものを感じる。恐る恐る近寄ったステファンは、砕けた岩の断面を見て悲鳴をあげた。 
 何かを叫ぶような人の顔。顔。顔。無念を訴えるかのように伸ばした手、また手。いくつもいくつも折重なって、それらはレリーフのように岩から浮き出ている。
「見るんじゃない、ステフ」 
 ステファンは逃げるようにオーリの元に駆け戻った。
「先生、あれって……」
「ああ、竜人の顔立ちだったな。ここからも透視できた。――なんてことを!」 
 オーリは悔しそうに唇を噛んで辺りを見回した。
「ほんの数十年前まで、この村は花崗岩を切り出して港まで運ぶ中継地だった。多くの竜人が苦役に使われ、反乱を起こした者もいたと聞いている。彼らがどうなったかずっと不明だったんだが、まさかこの場で岩に封じられていたとは……」 
「じゃ、さっきのカミナリは、それを教えてくれたの?」
 ステファンの目には、理不尽な扱いに抵抗した末に、岩に変えられ、封じ込められた竜人たちの無念が、ひりひりと感じ取れる。耐え難くなってオーリの肩に顔を伏せた。
「あんなのひどいよ! あれも、魔法使いが?」
「そうだ。魔法使いは、時に残忍にも、卑怯にもなる。それは事実だ。そしてその酷い歴史の延長上に今があるのも、変えられない事実なんだ」
 ステファンは震えが止まらなくなった。
「エレインは、あの人たちに代わって怒ったんだね」
「そうかもしれない……いや、むしろ強い怒りが引き金になって、岩の中の竜人たちと感応してしまったんだろう。エレインは本来、強い感応力を持つ“語り部”だったから。けどあの力は憑依魔法に近いんだ。繰り返し多くの竜人の言葉を受け止めて語っていると、心が壊れてしまう。それを恐れたからこそ、契約の時に力を封印したのに」 
 オーリはエレインの髪を掻き分けて左耳の後ろを確かめた。黒い小さな輝石の破片がぽろぽろと手に落ちてくる。
「封印の石が砕けている」
 信じられない物を見る面持ちで、オーリはエレインに問いかけた。
「なぜだ?」
 エレインは答えない。ただただ、光を映さない空虚な目を空に向けるばかりだ。
 オーリは草の中の砕けた花崗岩を見渡した。墓標のようにばらばらに点在しているように見えるそれらは、地面の下ではひと続きにつながっている。竜人の心もあるいは……
 足元で杖の転がる音がした。 
「封印だって? 仲間の苦しみを共有しようとする力を、封じるだって? なんて思い上がっていたんだ」 
 オーリは詫びるようにエレインを抱きしめた。その肩にポツ、ポツ、と雨が落ち始める。
「ごめん、エレイン……僕は竜人の痛みが、何もわかってなかった。人間は傲慢だ。魔法使いはそれ以上に傲慢だ!」 
 オーリのシャツの襟やタイには、さっき受けた傷の血が滲んでいる。けれどそんなことには構わず、彼はエレインを抱きしめたままで、何度も何度も竜人に詫びる言葉を口にした。
 
 緑の瞳に生気が戻り始めた。オーリの言葉が届いたように、やがて穏やかな顔になったエレインは、
「もう、眠っていい?」 
 と子供の声で聞いた。
 目隠しするように手でその顔を覆って、オーリは静かに答えた。
「ああ、眠っていい。エレインはもう、何も負わなくていい」 
 オーリの腕の中で、安心したような寝息が聞こえ始める。
 何も負わなくていい――そう言うオーリの横顔に、ステファンは何かの強い決意を感じ取った。
 
 雨はどろどろと鳴る雷を引き連れ、本格的に降り始めている。ステファンは寒さとさっきのショックで震えながら、それでも自分の上着を取ると雨の雫を払ってエレインの背に掛けようとした。 オーリは首を振って、着ていなさい、と言ったがステファンは聞かなかった。
「ぼく、何もしてあげられないんだ。エレインにも、竜人たちにも。ぼく、謝りたいんだ」 
「なぜ? 君が謝ることなんてない。竜人の歴史なんて、何も知らなかったんだろう?」
「そうだよ、知らなかった。あんなにいっぱい本を読んだのに、竜人のことは知ろうともしなかった。だから……」
 オーリはうなずき、顔を上げた。口元を無理に曲げている。目は悲しみでいっぱいのくせに、こんな時にまで笑顔を作ろうというのか。
 なぜ笑ったりできる? 今くらい、竜人たちのために号泣したっていいじゃないか、そう思うとステファンは余計に悲しくなって、雨でぐしゃぐしゃの顔になりながら、また声をあげて泣いてしまった。
「ステフ、泣き虫め。つくづく君がうらやましいよ」 
 オーリの顔には、雨で銀髪が張り付いている。
 やがてエレインをしっかりと抱きかかえたまま、オーリは立ち上がった。 ステファンはしゃくりあげながらオーリの広い背中を見上げる。 
 うらやましい? ではオーリは泣かないのではなく、泣けないのだろうか。大人は、そんな不自由な中で生きていかねばならないのだろうか。  
 
 容赦なく冷たい雨は降り続いている。その雨に顔を打たせて、水色の目が天を仰いだ。
「竜よ、竜人の母よ。そこに居るのか? あの岩の中の魂は、貴女の元に還れたのか?」 
 雷鳴は次第に遠ざかりつつある。 短い夏はもう終わろうとしていた。  
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 九月になると、急ぎ足で秋はやってくる。
 
 駅での一件以来、寒々とした日々が続いていた。
 エレインは一度砕けた封印石を、自分から望んで再び耳に着けた。日に何度か森を巡り、「守護者」としての務めを果たしているのは、これまでと変わらない。少なくとも、表面上は。けれど以前のように屈託の無い笑顔は見せなくなくなったし、なんとなくオーリと距離を置くようになり、アトリエにすらほとんど近づかない。
 マーシャが言うには、彼女はこの家に来てから初めて、まともに自分の部屋を使うようになったという――皮肉なことではあるが。
 オーリはといえば、妙に無口になってしまった。空っぽの天井の梁の下で、毎日カンバスに向かって何かと格闘するように描きなぐっては消し、また描いては削り、結局何も形にならないまま筆を置く、という毎日を繰り返している。
 
 ステファンはオーリにもらった本を何度となく読み返した。
 前にマーシャが言っていた、竜人の話を描いた絵物語だ。装飾的な描き方をされてはいるが、鮮やかな赤毛の竜人はエレインの一族、フィスス族をモデルにしているのだろう。美しい本なのに、出来上がる直前になぜか出版差し止めにされてしまったので、手元にあるのは試し刷りのこの一冊だけだそうだ。オーリが言うには、人間を侵略者として描いている内容がまずかったらしい。
 作・絵 オーリローリ・ガルバイヤンと書かれている奥付を見ると、1951年とある。オスカーがいなくなった翌年だ。
 ふと思った。オスカーは、エレインたち竜人と会った事があるのだろうか。

「坊ちゃん、ステファン坊ちゃん」
 一階から響く声にステファンは我に返り、慌てて立ち上がった。
 ぐずぐずしているとマーシャは着替えの手伝いを、なんて言い出すにきまっている。小さい子ではあるまいし、それは勘弁してもらいたい。
 けれど、今日着なければならない服は、前立てがフリルだらけのシャツだの、カフスだの、どうしたら良いかわからないものばかりだ。、結局ほとんどマーシャの手を借りるはめになってしまった。
「ほら坊ちゃん、カマーバンドが逆ですよ。このヒダが上に向くようにしなきゃ。そらそら、蝶タイはこんな結び方じゃおかしいでしょうに」
「だってぼく、パーティなんて出たことないし。なんでこんなややこしい服着なきゃいけないの?」
「そういう決まりごとだらけなのが世の中なんです。――はい、ようございますよ」
 マーシャにポンと背中を叩かれて、ステファンは鏡の前に立った。
「嫌だなあ、ペンギンみたい。ぜんぜん似合ってない。それに、こんな風に前髪を分けたらオデコが広いのが目立っちゃうよ」
「いいえ、よくお似合いです。さあ、そろそろ急がないと」
 
 マーシャに急きたてられて居間に下りて行くと、先にタキシードに着替えたオーリが、暖炉の傍でユーリアンと共にいた。
 まだ九月とはいえ、夕方になると急に冷え込んでくる。暖炉に入れられた小さな火がオーリの横顔を淡く照らし出すと、心なしか顎骨の陰影が濃くなり、いつもより大人びて見える。額を出して長い銀髪を全て後ろに撫でつけ、一つに結んだ姿は、まるで知らない紳士がそこに居るようだ。
 ユーリアンはまだ平服のままだ。膝の上ではアーニャが、不思議そうな顔をしていつもと違うオーリを見ている。
「よっ、ステフ。似合うじゃないか」
 ユーリアンに気さくに声を掛けられて、ステファンは照れくさそうに笑った。
「本当にまあ助かりましたよ、ユーリアン様のお洋服を貸していただいて。お仕立てがしっかりしていますから、魔法で縮めてもおかしくなりませんわねえ」
「もともとユーリアンは肩幅が貧弱だからな。ステフのサイズに合わせるのは楽だったよ」
 軽口を叩くオーリは、いつもの顔になっている。
「それより、本当に子守をお願いしてもいいんですか?」
 ユーリアンはマーシャの手に娘を預けながら気遣わしげに聞いた。
「ええ、ええ、喜んで。このマーシャ、小さい魔女さんの相手なら心得ておりますから」
「それは保障する。トーニャも小さい頃はマーシャの言う事だけは聞いてたよな」
 声を立てて笑い合う二人の魔法使いに、ステファンは心底ホッとした。こんなオーリを見るのは久しぶりだ。
 あと、エレインの笑顔さえここにあれば。
「でもオーリ様、靴はそれでよろしいんですか?」
「別にいいよ、これだってエナメルだし。オペラパンプスなんて履いて気取るような集まりじゃない」
 オーリは長い足を組み替えて靴紐を結び直した。
「お前らしいな。さて、じゃそろそろ僕も着替えに帰るとするか。楽しみにしてろオーリ、ソロフ門下一の伊達男はお前じゃないって事を証明してやるから」
 いたずらっぽい笑みを浮かべてユーリアンはローブを翻し、うすい煙を残して消えた。
「パパ、いってらちゃーい」
 アーニャは慣れているのか、目の前で父親の姿が消えても驚きもせずに小さな手を振る。
 
「ふうん、面白い仮装ね、魔法使いさん」
 ステファンは驚いて振り向いた。いつの間に来たのか、エレインが壁にもたれて皮肉っぽい視線を向けている。
「あ、あのね、本当はエレインが行くべきなんだよ。どうしてダメなの?」
「ははっ、何言ってるの。魔法使いや魔女が集まる場に、守護者なんて要らないわよ。それにアーニャだってあたしと遊ぶのを楽しみにしてるでしょ」
 それは嘘だ、とステファンは思った。アーニャはさっきからアクビを繰り返している。もうすぐ小さい子どもは寝てしまう時間だ。
「行きたくないというんだから、無理にとは言わないさ。ただ、マーシャには悪い事をしたな。折角ドレスを見立ててくれたのに、無駄になってしまった」
 それも嘘だ。エレインのドレスを注文したのは他ならぬオーリ本人だ。本当は今だって一緒に行きたいと思っているに違いないのだ。 
「ドレスは大切にしまっておきますよ。いつか着ていただけますよね、エレイン様?」
 マーシャが気遣うように話しかけてもエレインは答えず、眠そうなアーニャの手を引いた。

 オーリは立ち上がり、杖を振って床の敷物を壁際に寄せた。丸い大きな紋様が床に浮かび上がる。
「大叔父の家まで直接つながる遂道を開く。少し時間がかかるぞ、古いからね」
 床に白く輝く紋様は、話に聞く魔法陣というものかもしれない。オーリはじっとそれを見ていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「ステフ、マーシャ、悪いがちょっと外してくれるかな。遂道が開くまでの間、エレインと二人で話したい」
 マーシャはうなずき、有無を言わさずエレインの手からアーニャを引き取って部屋を出た。

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 キッチンに移りながら、ステファンは気が気でならなかった。この間からのエレインの態度に、オーリは怒っているに違いない。またケンカになりはしないだろうか。
「大丈夫ですよ、坊ちゃん。お二人はきっと大丈夫です。オーリ様を信じましょう、ね」
 不安顔のステファンをよそに、マーシャは落ち着いた顔でアーニャをあやしながら二階へ連れて行った。
 なぜマーシャは心配せずにいられる? 時折居間から聞こえてくるのは、何かを辛抱強く語り聞かせるオーリの低い声と、妙にとんがったエレインの声だ。話の内容まではわからないが、あまり和やかな話し合いだとは思えない。
 
 数分後、居間のドアが乱暴に開いて、エレインが憮然とした顔で出てきた。その腕をオーリが掴んで叫ぶように言う。
「だけど、これだけは言っておく。他の奴がなんと言おうが、僕は竜人の立場を下に見たことはない、ただの一度もない!」
 いつになく恐いオーリの表情に、エレインが一瞬ひるんだように見えた。が、すぐに腕を振り払って言い返した。
「わかってる! オーリは他の魔法使いとはちがう。でも、だからって何も状況は変わらないよ。あたしはやっぱり“野蛮な竜人”なんだ。いつかまたオーリを傷つけるかも知れないじゃない! それに森から一歩でも出たら、竜人の証を隠して生きていかなくちゃならないのよ。 魔法使いと竜人が対等なんて、嘘だ。もういいよ、一生“守護者”で。それ以上望まないでよ!」
 廊下で固まっているステファンには一瞥もくれず、エレインは庭の木立を揺らして消えていった。
 ひとり居間に残ったオーリは、まるで“この世の終わり”みたいな顔でじっと目を閉じていた。そして心配したステファンが声をかけようとした時にやっと目を開き、
「行こう。遂道が開いたようだ」
 と出発を促したのだった。

 「遂道」とはよく言ったものだ。
居間の床に現れた紋様はそのまま光の円柱となり、その中に立つと、円柱はゆるやかにカーブを描いてトンネルの形になった。
 上昇しているのか、下降しているのか、 前へ進んでいるのか、それとも? 自分の足元すらあやふやなまま、ステファンはオーリの袖口に摑まって輝く遂道の中を歩いた。
「ああ、まだるっこしいな。二人くらいなら“飛ぶ”ほうが早いのに」
 苛々した口調でつぶやくオーリの横顔は、光の加減だろうか、青白く見える。
 こんな時、なんと声をかければ良いのだろう? ステファンは黙々と歩くオーリを見上げた。
“パーティに誘って断られたからって、そんなに落ち込まないで”とか?
“しょうがないなあエレインは。でもまた仲直りの機会はあるよ”とか?
 だめだ。どれも、子どものステファンが言ったところで空々しいばかりだ。いっそユーリアンがここに居てくれたら、ちょっとは気の利いたジョークで和ませてくれたかもしれないのに。
 彫像のようなオーリの横顔を見上げながら、わざと明るい声で訊ねてみる。
「大叔父様ってどんな人? 北方の人って、先生みたいな顔してるのかな」
 水色の目がやっとこちらを向いた。
「いや、わたしは一族の中でも変わり者だよ。父が東洋人だからね。目の色は母方の遺伝のようだけど」
「そうなんだ。じゃ、髪の色は?」
「これは子供の頃大病して、色抜けしてしまったんだ。もともとはトーニャみたいな黒髪だった」
 オーリは遂道の光に反射する銀髪に手をやりながら、少し表情を和ませた。
「アトリエに写真が飾ってってあったろ? あれが唯一の家族写真だ。病気から回復した直後だったから、情けない顔で写ってるけど……五歳かそこらだったな」
 ステファンはアトリエの壁に大切そうに飾られた古い写真を思い出した。なるほど、東洋人らしい男が写っていたっけ。では黒髪の大柄な魔女がオーリの母、白っぽい髪の男の子がオーリということか。
「じゃ、あの赤ちゃんは先生の弟か妹だね?」
「赤ちゃん? ああ、アガーシャのことか。見た目はあれだけど、赤ちゃんじゃないよ。彼女はガルバイヤン家に昔から棲んでた魔女だ。あの姿のまま二百六十年生きた」
「に、二百六十年ーっ? じゃ、じゃあインク壷に棲んでるやつって……」
「勘違いしないでくれ。インク壷のやつは、わたしが勝手に名づけたんだ。魔女のアガーシャとは全く別の存在だよ」
 遂道の中は音が反響しないようだ。その分、声の表情がストレートに伝わってくる。子供の頃の思い出話で少しは元気になったのか、オーリは淡々と言葉を継いだ。
「大叔父は祖父の弟だ。祖父が亡くなってから、移民一世の中では最長老になってしまったな――いや、ソロフ師匠のほうがひとつ上だったか」
「先生の先生だね? どんな人?」
「偉大な魔法使いだよ」
 オーリは光に満ちた遂道の天井を見上げた。
「母国の動乱とか、この国の戦争とか、酷い時代を生き抜いてきた、鋼のような人だ。わたしなんか、何百年生きたってあの師匠の足元にも及ばないだろうな。八歳の時から預けられて、ユーリアンや兄弟子たちと過ごした十年間は忘れられない。魔法以上のことをたくさん教わったからね。あの師匠の元からどれだけの魔法使いが巣立っていったか。わたしはその裾野の、ほんの一端に居るに過ぎないけど、ソロフ門下だということを最大の誇りにしているよ」
 ソロフのことを語るうちに、次第にオーリの目にいつもの力強さが戻ってきた。
「ぼくも会いたい、その先生に。会えるかな」
「もちろんだ。ステフはわたしの弟子だから、ソロフ師匠の孫弟子ってことになる。胸を張って紹介するさ」
 オーリの目にようやく笑みが戻ってきた。良かった、今日はもうエレインのことは話題にするまい。そうステファンが思った頃、頬に湿っぽい風を感じ始めた。
 遂道の出口は、突然に現れた。
――海岸だ。ステファンは波音と夕闇の中に浮かび上がる、白い紋様の上に立っていた。

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 波音が聞こえるものの、足元は砂浜ではなく岩だ。いや、人工的な石畳の広場のようになっている。 
 潮の香のする夕闇の中でそちこちに白い光の円柱が立ち上がり、光の中から着飾った紳士淑女が現れる。それぞれに挨拶を交わしながら、人びとが向かうのは背後の岸壁だ。門番のように巨大な一対の石像が見下ろしている。人びとがその石像の前で名乗る度にさっと岩が割れ、またすぐに閉じる。
 オーリもまた進み出て、石像に向かった。
「初代ヴィタリーの娘たる賢女オリガの息子、オーレグ・ガルバイヤン。及びその弟子ステファン・ペリエリ」
 低く、よどみなく、呪文でも詠唱するような声で告げる。
 え? とステファンがオーリを見上げる間に、目の前の岸壁が割れた。
「先生、今の名前って……」
「母国語の本名だ。行こう」
 オーリはステファンの背を押して岩の向こう側へ進んだ。急に明るくなって目が眩みそうになる。ステファンの目が慣れてきた頃、淡い光に照らされた庭園と古い屋敷が姿を現した。
「“オーリローリ”は画家としての名だ。ガルバイヤンというのも本来は祖父の持っていた“雷を操る”という意味の通り名なんだよ。母国では魔法使いは姓を持っていなかったんだけど、祖父がこの国に移り住む時、移民局での手続き上必要になって、通り名を姓として登録してしまったというわけさ」
 ステファンは屋敷に集まる人びとを見回した。オーリの話は半分ほどしか理解できなかったが、魔法使いにも竜人同様、複雑な事情があるらしい。
「そうなんだ。でも誰もローブ着てないね。魔法使いの集まりじゃないの?」
「いや、ほとんどが大叔父と同郷の魔法使い、魔女だと思うよ。ただ、今日は魔力の無い一般人の客も来るはずだからね。“武装”してたんじゃ失礼だろう」
「武装って?」
 広間に進みながら、オーリもまた周りを見渡した。
「いいかいステフ、“杖とローブ”というのは魔法使いの象徴でもあり、武器であり、鎧でもあるんだ。わたしたちは常に杖を携帯しているけどそれは、ピストルを隠し持っているのと同じくらいに物騒なことなんだよ」
 ステファンはどきりとした。杖を持つにはややこしい手続きが必要、とは聞いていたが、そんな理由があったのか。
「よう、オーリ! ステファン!」
 広間の向こうから頭に白銀の布を巻いた青年が声を掛けてきた。一瞬誰だかわからなかったが、声には聞き覚えがある。
「ユーリアン、さん?」
 目を丸くするステファンの元に、褐色の笑顔が近づいてきた。丈の長い真っ白な異国の民族衣装を着ている。襟元から胸にかけての金糸を使った刺繍と、肩から長く垂らした緋色のショールが照明に映える。
 隣に立つトーニャもまた、ユーリアンに合わせた緋色の民族衣装だ。右肩だけ出して斜めに巻かれた布が、丸いお腹の上でドレープを描いている。
「おい……二人とも、決めすぎだ。そりゃ綺麗だけどさ。主賓より目だってどうする?」
 オーリはしげしげと夫妻の姿を見た。
「なあに、普通にしてたって僕は目立つんだし。それに僕の祖国じゃこれが正装だぜ。失礼にはならないだろう」
「どちらが失礼だか。結婚式にはオーリ以外だれも来てくれなかったんだから、今日はお披露目よ。大叔父様だって喜んでくださるわ」
 ユーリアンと腕を組むトーニャは、周りの親戚に向けて挑むような笑みを見せた。額の中央と前髪の分け目が赤い粉で装飾されている。
 不思議な唐草模様を染め付けたトーニャの白い腕で、何連もの豪華な腕輪がシャランと鳴った。
 

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