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1950年代の欧州風架空世界を舞台にしたファンタジー小説です。 ちょいレトロ風味の魔法譚。
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「ステファン、君もなかなかだ。魔女たちが騒ぐだろうなあ。覚悟しておけよ」
 ユーリアンはにやにやしながら言った。冗談はやめて欲しい。ステファンは冷や汗を浮かべた。それでなくても、見たことも無いオーリの一族が集まるパーティに自分みたいな子どもが来てよかったのか、戸惑っているというのに。
「エレインはやっぱりダメだったのか?」
 周りをはばかるように、ユーリアンが小声で聞いた。
「ああ、仕方ないさ。今日集まるのはソロフ門下ばかりじゃない、竜人を見下すような連中もいるだろうし」
「そりゃ……しょうがないよなぁ」
 ユーリアンは同情とも諦めともつかない顔でオーリの肩をポンと叩いた。
「こっちは崖から飛び降りるつもりで思いの丈を全部口に出したつもりなんだがな。
“やなこった”のひと言であっさりフラれるとは思わなかった。人生最悪の日だよ」
 オーリは冗談めかして肩をすくめたが、目の中には悲しげな光の珠が揺れている。そんな“人生最悪の日”に、自分の感情に沈むよりもオスカーの手掛かりを探すことを優先してくれたのだ、と思うと、ステファンは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 
 けれど、今のステファンにはオーリを思いやっている余裕は無い。なにしろさっきから、広間中の視線がこちらを向いているのだ。無理もない。きらびやかな異国の衣装をまとったユーリアン夫妻は絵本の中から抜け出たようだし、彼らと相対しているオーリもまた、別な意味で際立っているのだ。
 視線というものは不思議だ。直接的な力が加わるわけでもないのに、人を怖気づかせ、傷つけもする。ましてこの場に居るのはほとんどが魔法使いと魔女だ。ただでさえ強い目をしている彼らから発する圧力といったら! 好奇心やら嫉妬やら、羨望やら非難やら……それらが千本の矢よりも鋭く刺さってくるというのに、この三人はなぜ平然としていられるのだろう? いたたまれなくなったステファンがオーリの上着の陰にでも隠れてしまおうかと思った頃、広間の一隅がざわつき始めた。
「主役のお出ましよ。相変わらずね、大叔父様」
 トーニャが皮肉な笑みを浮かべた。

 数人の美女に囲まれて、音も無く大きな椅子が現れた。
 革張りの背もたれと重厚な彫刻入りの縁取りが見えるが、肝心の「大叔父様」の姿は周りの人の頭に邪魔されて見えない。
 列席者は次々に集まって椅子に向かい、順番にお祝いの言葉を述べていく。大叔父様はきっととても小柄な老人なのだろう、とステファンは勝手に解釈した。
「ステフ、あれは何に見える?」
 オーリが顎で示すのは、椅子の周りで中世の婦人のような装束でかしづく美女のことだ。
「なんというか……人間じゃない。生きてるけど、なんか恐いな」
「そう。はっきりした本性が見えなくて幸いだな。あれは大叔父と契約している、ハーピーだの水妖だの、まあそういった連中だ。現在じゃほとんど見ることのない絶滅危惧種ばかりだな。中世風の美女に変身させてるのは大叔父の趣味だろうけど」
 オーリはそういうと、視線を落とした。
「本来の姿を偽って、魔法使いのしもべのごとく振舞って……そんな風に生きていくしかない彼らは、幸せと言えるんだろうか? わたしにはできないよ」
 エレインのことを考えているのだな、とステファンは思った。
「先生はエレインのこと、“しもべ”だなんて思ってないでしょう? ううんエレインだけじゃない、インク壷のアガーシャだって、庭にいる変な連中だって、大切にしてるじゃない」
「もちろんだよ。エレイン、マーシャ、ステフ、他の皆のことも、家族だと思ってきた――家族が欲しかったんだ、とても。だけどね、それだって契約で縛っているのに過ぎないんじゃないかと最近思えてきた。自分のわがままを押し付けてるのじゃないかってね」
 
 今日のオーリはどうかしている、とステファンは思った。いつもは自信に溢れて堂々としていて、こんな愚痴っぽい言葉を吐く彼ではない。やはり“守護者”が隣に居ないせいだろうか。今日はエレインのことは話題にするまい、そう思ってはいたが、どうにも不安になって、ステファンはこの間から心に引っかかっていることを口に出した。
「先生、この前“エレインはもう何も負わなくていい”って言ってたよね。あれってまさか、契約を解く、とかいうことじゃないよね?」
「必要ならそうする」
 彫像のような横顔のまま、オーリはあっさりと認めた。
「だめだよ!」
 ステファンは袖を引っ張った。
「エレインが好きなんでしょう? エレインだってずっと先生の傍にいたいはずだよ。絶対、そんなのだめだ!」
「だけどねステフ、今のままじゃエレインは本当の自由も幸せも得られないんだよ。ただ“好き”というだけでは大切な人を護ることはできないんだ」
 水色の目は深くて静かな覚悟の色をしている。どういえばいいのかわからず見上げるステファンを安心させるように、オーリは微笑んだ。
「もちろん今すぐに契約を解くわけじゃない。良くも悪くも、契約によってエレインが護られてているのは事実だから。でもいつかは……」
「おおい、いつまでそこでグダグダ言ってる? さっさと挨拶を済ませてこい。飲もうぜ!」
 ユーリアンがシャンパンの入ったグラスを掲げて陽気に声を掛けてきた。
 
 オーリに促されて前に進み出ながら、ステファンは必死に考えた。
――契約を解くってことは、守護者じゃなくなっちゃう? そうしたら、エレインはどうするのだろう。どこか遠くへいってしまうのだろうか。そんなのダメだ、オーリは“家族だ”と言っているのに。
――どうすればいい? どうすれば、自分の両親みたいにバラバラにさせずに済む?
 考えのまとまらないまま、ステファン達の順番がきてしまった。椅子の前まで進むと、オーリは礼儀正しく胸の前に手を置き、膝を折る。
「賢女オリガの息子、オーレグです。大叔父様の百八十歳のお誕生日を心からお祝い申し上げます」
 ステファンも慌ててオーリに倣ったが、頭を上げてぎょっとした。失礼だとは思ったが、椅子の上を凝視せずにはいられなかった。

――これは、人間か?

 ふかふかの絹のクッションの上に鎮座しているのは、赤ん坊の頭ほどに小さい、茶色く干からびた木の切り株、いや、球根、いやそれとも?
「おお、オリガの息子、ありがとう。お前も息災か?」
 茶色い物体の裂け目が人間の口のように動いた。と、その上部に二つの裂け目がカッと開き、ステファンに向いて叫ぶように言った。
「待っておったぞ、オスカーの息子よ!」
 

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 ステファンは驚きで声も出なかった。
 まさか、ここでオスカーの名を聞くとは思わなかった。大叔父様と父がどこでつながりがあるのか、いやその前に、この不思議な干からびた物体がなぜ“大叔父様”なのか、頭の中が疑問符だらけで目まいがしそうだ。なにか言葉を紡ごうと焦ったが、その間にも茶色い物体の目と口――そう呼べるのならば、だが――は再び閉ざされ、沈黙してしまった。お供の美女たちがさっと椅子を囲む。
「眠ってしまったようだ。話の続きは後だな」 
 オーリは別段驚きもせず、冷ややかな顔でつぶやいてその場を離れた。
 挨拶の順番待ちをしていた人びとから残念そうなため息が聞こえたものの、皆オーリと同じような態度で広間の中に散っていく。ステファンが振り返ると、大叔父様は既にお供や椅子もろとも姿を消していた。
「先生、あのう、ええっと、どういうこと?」
 ステファンは迷子にならないよう懸命にオーリの後を追った。
「気にすることはない、大叔父は起きている時間のほうが短いんだ」
「そうじゃなくてさ、なぜぼくのこと知ってたの? 大叔父様ってお父さんと知り合いだったの? 第一あの姿って……百八十年も生きてるとああなっちゃうの?」
 矢継ぎ早に質問をするステファンに、やっとオーリの顔が向いた。
「最初の二つは本人に直接聞くしかないな。いつもああやって謎かけのような言葉を吐いては楽しんでるんだから、始末が悪いよ」
 広間にはいつの間にかいい匂いが漂っている。壁際のテーブルには料理やグラスが並び、人びとは主役の居ないまま思い思いの場所に立って乾杯をし、談笑を始めている。
「なるほど、ご馳走が並ぶ場にハーピー(注:1)を同席させるわけにはいかないものな」
 オーリはそう言ってフルートグラスを手に取り、ステファンには蜂蜜色の飲み物を渡した。 
「そして最後の質問だが。昔の高名な魔法使いが四百年も五百年も生きたことを思えば、百八十歳なんてまだ壮年だよ。なのにあの姿だ。なぜだと思う?」
 ステファンに判るわけがない。質問しているのはこっちなんだけど、と困っていると、オーリは細いグラスの曲面に映る自分の顔を見ながら言葉を継いだ。
「一族を守るために、自分の魂を裏切る魔法を使った代償さ」
「ええ?」
 思わず大声で聞き返したステファンに、周りの何人かが怪訝そうに振り向いた。
「どういうこと? 先生こそ、それじゃ謎かけみたいだ。ちゃんとわかるように言ってよ!」
「よう、どうした。何を揉めてる」
 人びとの輪の中から抜け出して、ユーリアンが近づいてきた。
「大叔父がなぜあんな姿になったかという話」
 オーリはグラスの中の細かな泡を見つめながら呟いた。
「こっちへいらっしゃい、ステファン」
 トーニャは壁際の椅子にステファンと並んで座ると、皿に盛ったオードブルを勧めながら話し始めた。
「大叔父様の姿は何に見えた?」
「わかんない。木の切り株かな。それとも球根?」
「近いわね。あれは、巨大樹の種子よ」
「巨大樹……王者の樹みたいな?」
 ステファンの脳裏に、いつか森の中で見た、神秘的な王者の樹の姿が鮮やかに浮かんだ。
「わたしたちのお祖父様や大叔父様がこの国に移り住んだ頃はね、生きていくだけで大変だったの。魔法使いの地位を高めるために、大叔父様たちはあらゆる手を尽くしてくれたと思うわ。戦争に加担することもあった。綺麗ごとでは済まされない手段も使った。それがいいとか悪いとかじゃなく、そうしなければ生きていけない時代だったのよ。
わたしたちが今、魔女、魔法使いと名乗りながらも普通の市民として暮らしていられるのはね、大叔父様たちの世代が土台を作ってくれたからよ」
「けど、失うものも大きかった」
 くい、と一息に残りを飲み干して、オーリはまずそうに顔をしかめた。
「そうね。魔法といっても所詮は人の心から生まれるもの。世の中が落ち着くにつれ、自分達の過去を問うようになると、最初の世代は急速に魔力を失っていったわ。大叔父様はああして人の姿を捨てて、やっと自分を保っているの」
「そうなんだ。でもなんかそれって……あんまりだ。大叔父様、可哀想だ」
 神妙に考え込むステファンに、トーニャは微笑んだ。
「大叔父様は望んであの姿になったのよ。自分が亡くなったらこの岬の土に埋めて欲しい、そこから大いなる樹に成って皆を見守りたいって言ってたわ」
「あの様子じゃまだまだ樹には成れそうにないけどね。美女を侍らせたりして俗っ気が多すぎるだろう、あの爺さんは」
 皮肉たっぷりに言うオーリはラムチョップを少しかじって、再びまずそうな顔をした。

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「味を感じないんでしょう、オーリ」
 トーニャは笑いをこらえるような顔をしている。
「砂を噛む思い、とはまさにこれだな。どういう料理人を雇ったんだ?」
「そうか? シャンパンもラム肉も極上だと思うが」
 ユーリアンは自分のチョップを骨だけにしてしまうと、満足げにナプキンで口を拭った。
「あなたが大叔父様に対して心を閉ざしている限り、ここでは何を口にしても同じでしょうね」
「へえ、光栄だな。じゃあ結構だ、食事が目的で来たわけじゃなし」
 オーリは憮然とした顔で、壁の天使像が持つ皿に食べさしの肉を置いた。天使は途端に顔中口だけの怪物に変わり、ラムチョップをひと呑みにすると、再びすまし顔に戻った。
「そうとんがるなよ。大叔父様が目覚めたら一緒に部屋へ伺おう。それまでは時間を有効に使うんだ、オーリ」
 ユーリアンはトーニャの腕を取ると、さっき話していたのとは別の魔法使いに近づいた。
 最初は硬い表情で挨拶をした相手も、二言三言言葉を交わすうちにたちまち笑い声を立てるようになった。そうしてものの五分とたたないうちに、ユーリアン夫妻の周りには人の輪ができてゆく。
「たいしたものだよ」
 オーリは苦笑いをした。
「彼は“周りと違う”ことを最大の武器にして、人の心をつかんでしまうんだ。職業の選択を間違えたんじゃないかとさえ思えるね」
 ステファンは目を丸くして夫妻を見るうちに、オーリの言葉とは別なことを思った。 
――本当は皆、ユーリアンと話してみたかったんじゃないだろうか。
 なのに、何かが目に見えない障壁になって、人を緊張させ、遠ざけさせる。ユーリアンはあえてその障壁を自分から踏み越えに行ったようにも見える。
 なんで魔法使いたちは、自分からユーリアンに近づこうとしなかったんだろう。一度でも彼と会って話してみれば、誰だってその快活さに魅了されてしまうのに。

 すう、と冷たい風が流れ込んで来た。と共に、静かな衣擦れの音と重々しい気配が近づいてくる。目を向けたステファンは、思わず後ずさった。黒いドレスと円錐形の帽子を被った魔女が数名、こちらに近づいてくる。
「これは伯母上! お久しぶりです」
 オーリは自ら歩み寄って、懐かしそうに先頭の魔女の手を取った。
「元気そうね、オーレグ」
 まるで女王のごとく威厳のある態度でオーリの挨拶を受けた後、魔女は水色の目をステファンに向けた。この顔には見覚えがある。いつかオーリ宛に届いた“虚像伝言”の魔女だ。トーニャのような黒髪の半分は白くなっているが、年はまだ五十代といったところだろうか。オーリと背が変わらないほどの堂々たる体格といい、氷のような目といい、映像で見る以上の迫力だ。ステファンは恐くて動けなくなってしまった。
「この子は?」
「わたしの弟子です。ステファン、こちらはガートルード伯母、トーニャの母上だ。そして一族の魔女ゾーヤ、タマーラ、リンマ……」
 後ろの三人の魔女たちは随分小柄だ。老木のようなシワシワの顔を突き出して興味深げにこちらを覗き込む。
「は、はははじめまし、まし……」
 恐さと緊張で舞い上がったステファンがまともに挨拶の言葉も言い終わらないうちに、三人の魔女は歯の抜けた口をほころばせて取り囲んだ。
「んまあー可愛らしい。オーリャ(注:2)の小さい頃を思い出すねぇ」
「ステンカ、ひ孫と同じ名前だわ」
「こっちぃおいでスチョーパ、タルトはどう?」
 魔女たちはあっという間にステファンの腕を捕らえると、有無を言わさない迫力でデザートを盛ったテーブルのほうへ引っ張っていく。
「ひぃぃっ!」
 ステファンは助けを求めようとオーリを振り返ったが、彼はまだ伯母と話しこんでいる。その間にも三人の魔女は代わる代わる早口で話しかけてくる。大半は彼女らの母国語なのか意味がわからないが、どうやらテーブルのお菓子を取れ、とさかんに勧めているようだ。
 もとより食欲なんてないが、断るとどうなるかわかったものではない。仕方なくいくつか焼き菓子を皿に取って、顔をひきつらせながら口に運ぶと、魔女たちは満足そうに声を立てて笑った。その声さえ恐くて胃が凍りそうだ。それに、悪意が無いのはわかるが“ステンカ”だの“スチョーパ”だの、勝手な愛称で呼ぶのはやめてほしい。早くオーリの話が終わらないかな、と泣きそうな思いで、ステファンは二個目の菓子を口にねじ込んだ。

 オーリはといえば、伯母に連れられて来た別の魔女に挨拶している。随分若くて綺麗な魔女だ。少し話をしたところに、また別の魔女が挨拶に来る。数分のうちに、オーリは何人もの魔女と会話をしなければならないようだった。
 ステファンにもうすうす事情がわかってきた。これは一種のお見合いだ。厳しい監視役のように立つ伯母の傍で、オーリは苦役に耐えるような目をしている。三人の魔女にステファンを“拉致”させたのだって、邪魔者を追っ払うためだろう。
 若く美しい魔女たちは、やたら熱を込めた眼差しでオーリを見ている。話が終わった後も、魔女どうしお互いにけん制するように視線をぶつけ合う姿は、見ていて恐ろしかった。
 オーリは最初のうちこそ礼儀正しく挨拶をしていたが、次第にイライラした表情になってきた。
“もう充分でしょう、伯母上” そう口元が動いたかと思うと、魔女達には一瞥もくれず、大きな歩幅でステファンに近づいてくる。
「失礼。ちょっと所用がありますので」
 オーリはそう言って、ステファンの腕を引っ張り、三人の魔女から引き離した。
 助かった、そう思ってステファンは口の中に残った最後の欠片を飲み込んだ。これ以上あの魔女たちの勧めるままお菓子を食べ続けてたら、胃が砂糖漬けになってしまう。

 ステファンを引っ張ってテラスに出ると、オーリは吐き捨てるように言った。
「――なにが由緒正しい魔女だ、なにが血統だ! 化粧や宝石でいくら飾り立てたって、腹の中はきたない見栄と欲ばかりじゃないか。だから魔女は好かないんだ! ステフ、君にも多少は連中の心が見えただろう。エレインのほうがよっぽど高潔だ。そう思わないか?」
 一気にそれだけ言ってしまうと、腹立たしげに青い火花を敷石に投げつけた。
 そりゃ比べるほうがどうかしている、とステファンは思った。
 高く髪を結い上げ、思い切り襟の開いたドレスを着た魔女たちは、確かにぞっとするほど綺麗だ。けれどその“綺麗”と、エレインの“きれい”はまるきり違う。
 化粧なんかで飾らなくても、エレインの輝きには濁りが無い。おへそ丸出しの狩猟神のような格好で森を駆け回る姿には、いつだって太陽光のイメージが浮かぶ。太陽の光に勝てる宝石など、あるわけがないのだ。

 広間の中では音楽が流れている。数人がダンスを始めたようだ。
「ぐずぐずしてたらダンスの相手までさせられそうだ。ステフ、そろそろ大叔父のところへ行こうか」
 オーリが懐中時計を取り出した時、広間の一隅がざわつき始めた。


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 タキシードや燕尾服の紳士たちの中、大声でわめいている男が居る。口髭をたくわえた赤ら顔には見覚えがあった。
「あ、あいつ! 駅で竜人を苛めてたやつだよ」
 オーリにもそれは判ったようだ。無言でうなずき、厳しい目を髭男に向ける。
 が、男と対峙している相手を見てさらに顔を曇らせた。
「悪いがステフ、先に行っててくれないか」
 そして庭に面して続くテラスを示して手を伸ばした。
「大叔父の部屋は三階にある。広間は通らず、テラス伝いに行って四番目の部屋へ入るんだ。らせん階段が見えるから、手すりの彫刻にこれを掲げて。そうすれば大叔父様の部屋までの道筋がわかる」
 オーリは手短に言いながら、内ポケットから光る物を出した。トーニャの家で見た水晶だ。ステファンは緊張した面持ちで水晶のペンダントを首に掛けた。
「四番目の部屋、らせん階段、わかりました。でも先生は?」
「すぐにユーリアンたちと合流する。これを」
 金色の火花と共に、オーリの手に「忘却の辞書」が現れた。ユーリアンが分解したままの形だ。オーリは銀髪を束ねていた黒い繻子の紐を引き抜くと、辞書がばらけないようにしっかりと束ねた。
「これは別に持っていたほうがいいな。内ポケットに入れておきなさい」
 最後に差し出されたオスカーの手紙をステファンがしまったのを見届けると、オーリは足早に広間に戻っていった。

「だから、場違いだといっておるのだ!」
 いささかろれつの回らない男の声に、人びとはダンスを止めて何事かとささやきあっている。壁の前の巨大な自動演奏器のみが、金銀の彫刻を揺らしながらワルツを奏で続ける。
 酒臭い息を撒き散らしてわめく男の前で、トーニャを庇うようにしてユーリアンが立っていた。
「おっしゃる意味がわかりませんね。失礼ですが、少しお酒が過ぎたのでは?」
 冷ややかな声で応じるユーリアンの純白の上着の背中には、赤い酒の染みが広がっている。
「黙れ、南方のインチキ魔法使いめが。今宵は北方一族の祝いの席だというからこうして知事閣下をお連れしたというのに、お前のような輩が居ては興ざめだわい!」
 ユーリアンが何か言い返す前に、声を発した者がいた。
「お言葉ですが。彼は優秀なソロフ門下ですし、夫人は初代ヴィタリー老の孫です。一族の者として、祝いの席に着くことに何の問題もないと思いますが?」
 銀髪の青年がいつの間にか背後に立って、髭男を見下ろしていた。長身から発せられる声は冷静だが、水色の瞳には怒りの色を浮かべている。
「ほう、驚いた。異国人がここにもか。北方の一族にはなんとも奇態な輩が揃っているものだな、え?」
 ざわっと周りの人びとが不快そうな反応をしたのにも構わず、髭男は太った腹を突き出して笑った。
「まあまあ、そう事を荒立てずとも。私は楽しんでおりますぞ、このような異国の徒と親しむのも座興でよろしいではないか。ときに奥方、ご主人は着替えが必要なようだ。その間私が一曲お相手など」
 知事と呼ばれた白髪の男は手を差し出した。片眼鏡の向こうから薄笑いを浮かべ、無遠慮にトーニャを見る。
「まことに光栄ですが閣下、御覧のとおり妻は身重ですのでダンスのお相手はとても……」
「いいえ、ここはお受けしなくては失礼というものですわ」
 トーニャは紅い唇をニヤと曲げて知事の手を取り、自動演奏器に呼びかけた。
「フローティング・ポルカを!」
 声に応えて、金属のタクトが宙に浮かんだまま揺れた。軽快なポルカの演奏が始まる。
 髭男と知事に不愉快な視線を投げながらも、魔女と魔法使いが中央に集まってきた。それぞれに床からふわりと舞い上がり、浮遊(フローティング)したままポルカを踊り始める。
「さあ、知事閣下。どうなさいまして? こういうダンスはお嫌い?」
 緋色の衣装から手を伸ばしてトーニャは皮肉に笑っている。相手が魔力の無い普通の人間だということを承知の上で誘っているらしい。知事は目を白黒させて首を横に振った。
「トーニャ、慎みなさい」
 厳しい声と共に大柄な魔女が現れた。
「失礼しました閣下。躾の行き届いていない娘の、ちょっとした冗談ですわ」
「ガ、ガートルードどの! これは、こちらこそ失礼」
 知事は魔女と面識があったのか、慌てて一礼すると、逃げるようにその場を去った。
「さてと、サー・カニス。うちの娘婿が何か? それともダンスのお相手でもお探ですしかしら」
「い、いえ滅相も無い」
 カニスと呼ばれた髭男もまた、ガートルードを見て顔色を変えた。
「それは残念だこと。ではユーリアン、踊りながら話を聞きましょうか。その前に……」
 魔女はユーリアンを後ろ向かせると、何度か爪を弾いた。さっきまで赤い染みのできていた上着が、たちどころに純白に戻る。
「ありがとうございます、お義母さん」
 ユーリアンは微笑んで自分より頭一つ分背の高い魔女の手を取ると、オーリを振り返った。
 オーリはうなずき、髭男に鋭い一瞥をくれてから、トーニャを安全な壁際の席まで連れて行った。

「ほう、思い出したぞ」
 髭男はオーリを睨みながらつぶやいた。
「あの銀髪は駅に居た若造だな。あの時はよくも恥をかかせてくれた」
 ダンスに加わる人の数はますます増えてきた。賑やかな曲と歓声が飛び交う中で、オーリは何か嫌なものを聞いたかのようにピクと反応した。
「今なら母に叱られないわよ、遠慮せずに行ってらっしゃい。ここで見ててあげるから」
 トーニャは何かを期待するようにニヤリと笑った。
「相変わらず過激だね、わが従姉どのは。別に喧嘩をするつもりはない、そのくらいの分別はあるよ」
「でも、向こうから挨拶に来たら?」
 フローティング・ポルカの輪を縫うように髭男はこちらに向かってくる。しつこい奴だ、とつぶやいて真っ直ぐ相手に近づいてゆく従弟の背中に、トーニャは楽しそうに手を振った。


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 カニスはフン、と口髭を揺らし、テーブルに近づいて再びグラスを手にした。オーリもそ知らぬ顔でグラスを取り、隣に立つ。
「オーリローリ・ガルバイヤン、思い出したぞ。この一族には確かそんな別名を持った絵描きが居るらしいな」
「これは光栄です、カニス卿。わたしのほうはご高名をちっとも存じ上げなかったというのに」
 嫌味たっぷりにそう言うと、オーリは杯を掲げた。
「そうとも“卿(サー)”だ! この称号を得るために苦労してきたんだからな。貴様ら移民にはわかるまい?」
「わかりたくないですね。称号なんて我々には無用な飾り物だ。自由な立場で居られるからこそ“魔法使い”なんだ。そうじゃないですか?」
 オーリの目は壁の照明を受けて冴え冴えと光っている。
「その“無用な飾り”こそが力なのだ。君ら絵描きだってそうだろう、コンペで賞を欲しがらない者が居るかね? 画壇で名を上げたいと思うのは、なぜかね? 結局のところ、画商に少しでも高く買わせた者が勝ち、だからだ。世の中とはそういうものだろう」
「あなたは何もご存じない」
 オーリは“軽蔑”の言葉がはっきりと読み取れる顔を見せた。
 音楽は流行の曲に変わっている。浮かれた曲調に場違いな表情で、二人の魔法使いは睨みあった。
「ときに、あの少年はどうしました? あなたに虐待されていた、竜人の少年は?」
「ははあ、虐待とはまた大げさな。牛馬に鞭打つのと同じ、飼い主としての正当な行為に過ぎん。まあとうに売り飛ばしたがね」
「売った、だと?」
 オーリの眉がぴくりと動いた。
「そうとも。タダで管理区にやることもあるまい、炭鉱や港ではまだまだやつらの需要はあるからな。だがこれからは科学万能の時代だ、我輩には竜人の力などもう要らん。奴らを売った金でいくらでも新しい技術を買って、古くなれば使い捨てればいい。電気機械は文句を言わんからな」
「あなたは、自分が何をしたか判っているのか!」
 カニスを睨むオーリは拳を震わせている。銀髪の周りで青白い火花が飛び交い始めた。
「おいおい、何を怒る? 誰でも考えることだろう」
「科学万能だって? では竜人と同じように、魔法使いであるあなたが“必要ない”と言われる日は近いな。契約をカネに換えるだって? ソロフ門下なら決してそんな考えは持たないだろう。 少なくともわたしにとって竜人との契約は、お互いの尊厳を賭けた神聖なものだ!」
 カニスは呆気にとられたようにオーリの顔を見ていたが、やがて腹を揺すって笑い出した。
「これは傑作だ! ソロフ門下はいまだにカビの生えた美徳を守っとるというわけか。なるほど君が連れていた美形の竜人なら、別の使い道もあるだろうしな、フフフ。おい、聞くところによると竜人はトカゲのように卵から生まれるそうだが、あの美人もそうかね? では人間と竜人の交配種は……」
 鈍い音を立てて髭男がふっとんだ。オーリの右ストレートが顔面にめりこんだのだ。 
「それ以上口を開くと、“座興”では済まなくなるぞ!」
 オーリの全身はいまや火花ではなく放電光に包まれ、目は恐ろしい色に光っている。
 ダンスの熱が最高潮になっている人びとが見向きもしない中、青ざめたカニスはテーブルの隙間に逃げ込もうとした。
 ピュイ、と口笛を鳴らしてユーリアンが近づいてくる。
「パートナーチェンジだ、オーリ」
 ユーリアンは、オーリの腕を引っ張ってガートルード伯母のほうへ押しやった。
「ああもうひとつ言っておこう。わたしの守護者には美しいヘソがある。つまり胎生だ。卵などでは生まれないんだ、竜人は!」
 オーリはまだ言い足りないようだったが、伯母に引っ張られてダンスの渦の中に紛れていった。
「ぶ、無礼な……」
 鼻血を流す髭男の前に、スッと白いハンカチが差し出された。
「どうぞこれを。それよりカクテルをご一緒しませんこと?」
 トーニャがグラスを手に小首を傾げて微笑んでいる。ぶつぶつ言いながらカニスはハンカチで顔を抑え、おやという表情をした。
「これは……この匂いは……」
 途端に惚けたような顔になり、両手をぱたりと床に落とす。
「あら、お気に召さなくて? ほんの少し、香水を沁みこませてただけなのに。それとも忘れ薬だったかしら」
 トーニャの紅い唇が三日月の形に微笑む。
 恐い怖い、と首をすくめて、ユーリアンはカニスを壁際まで引きずって行き、天使像の下に座らせた。天使像の怪物は目だけじろっと髭男に向け、喰うに値するものかどうかと観察し始めた。
 でっぷりとした腹のまわりに短い手足のついた様は服を着たローストチキンのようだ。もちろんユーリアンは、カニスの頭にパセリを飾っておくのを忘れなかった。

 ダンスの波に押されながら、オーリはじっと目を閉じて立ち尽くしていた。
 伯母の小言と音楽の渦と。
 その中でようやく目を開いた時には、放電の光も恐ろしい目の光も消え、彼は思い出したように手を押さえた。
「あ痛っ……今頃になって利いてきた。魔法以外で人を攻撃したのは久しぶりですよ。フフ、結構痛いものですね」
「カニスのような小物相手に野蛮な真似をするからですよ。見せなさい!」
 伯母はオーリをダンスの輪の外に出すと、腫れた右手を見た。
「まあ、指の骨にヒビが入ってるじゃないの。画家のくせに手を傷めてどうするのです、まったくこの子は」
 魔女の口元がぶつぶつと動き、手の上に長く息を吹きかけた。たちまちに腫れは引いていく。オーリは指を曲げ伸ばして微笑んだ。
「相変わらず見事な治癒魔法だ。子供の頃から何度これで助けてもらったかな」
「えーえ、この甥には悩まされましたとも。身体は弱いしソロフのところから何度も泣いて帰るし……おまえが無事に成人した時には後見人としての役目もこれで終わると、どんなにホッとしたことか。なのに未だにこうやって手を煩わせるのだから」
「申し訳ありません、伯母上。どこの一族にも出来の悪い者が一人くらいはいるんですよ」
 ガートルードは、今は亡き妹と同じ瞳をした甥を見て、諦めたようにため息をついた。
「まったくああ言えばこう言う。せめて早く花嫁を迎えなさい、少しは大人になれるでしょうから」
「ご心配なく。心に決めた人なら居ます」
 オーリは窓の外の遠い星空に目をやった。
 
 曲はゆったりとしたワルツに変わっている。治してもらったばかりの手を差し出して、オーリはうやうやしく頭を下げた。
「では伯母上、改めて一曲お願いできますか?」
「調子の良い子だこと。ステップは心得ているのでしょうね? ユーリアンより下手だったら遠慮なくお尻を叩きますよ!」
 伯母は水色の目でひと睨みして、それでもオーリの手を取り、優雅に舞い始めた。

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 オーリから託された辞書をしっかりと抱きかかえ、ステファンは庭伝いに四番目の窓に向かった。
 磨きこまれたガラスの向こうは、賑やかな広間とは対象的な、しんとした吹き抜けの階段ホールだ。黒いアイアンレースの手すりが美しい螺旋階段が目に入る。上り口では乙女の姿をした彫刻が天を指差していた。
 中に入ろうとしたステファンは、窓に鍵が掛かっていることに気付いた。
「嘘! こんなのないよ、先生」
 ステファンはニ、三度むなしく窓を揺すった後、ガラスに顔をくっつけて鍵の具合を見た。縦長い掃きだし窓は、中央に一つ、ステファンの背丈よりずっと高い場所に一つ、簡単な掛け金式の鍵が付いている。もっとも、上のほうは錆びて外れているようだが。
「どうしよう。先生なら、こんなの簡単に開けちゃうんだろうけど……」
 開錠なんて初歩の魔法、以前にオーリはそう言っていた。けれど、ステファンはその“初歩”すら知らないのだ。もう一度広間に帰って別の入り口を探してみようか、とも思ったが、広間はあの髭男のことでもめているに違いない。恐ろしい三人の魔女につかまるのも面倒だ。
――ひょっとして、ぼくにもできたりしないかな。
 ステファンは窓を見つめて唾を飲み込んだ。鍵は簡単な作りだ。掛け金を持ち上げさえすれば……
「やってみれば?」
 突然後ろから声を掛けられて、ステファンは飛び上がった。誰も居ないと思っていたのに、いつの間にか少年が一人、芝生の上からこちらを見ていた。年の頃はステファンと同じくらいだろうが、襟の高い黒い服に身を包み、長い金髪をきっちり分けた姿はずっと大人びて見える。
「あ、ええと、ぼく……」
 ステファンはわけもなく焦った。別に悪い事をしていたわけではないが、なんだかいたずらを見咎められたような気分だ。
「でも普通の“開錠”くらいじゃ入れないけど。その鍵、トラップなんだ」
 少年はステファンになどお構いなしに窓を指差した。カチリと音がして、掛け金が外れるのが見える。途端にカーテンのドレープが崩れ、重量感のある分厚い布がガラスの向こう側に垂れ下がった。
「ほらね。知らずに入ろうとすると、あのカーテンにつかまるよ。別にケガはしないけど、きっとパーティが終わるまで離してもらえない。あいつ退屈してるんだよ、ずっとここで番をしてるだけから」
「え、そ、そうなんだ。ありがとう……って君、もしかして魔法使い?」
「そうだよ。君もだろ?」
 少年がけげんそうな顔をするのを見て、ステファンは自分の間抜けな言葉を恥じた。確かに、今日がどんなパーティかを思えば、自分以外にも子どもの魔法使いが居ても不思議ではない。広間では気付かなかっただけかも知れないのだ。
「すごいな。ぼくなんかまだ、見習いっていうか……七月から始めたばっかりで、杖も持ってないし」
 簡単に“開錠”の魔法を使って見せた相手を前にして、ステファンは気後れを感じた。
「ふーん、見習いか。でも杖なんて本当は必要ないかもしれないよ。要は、自分が何をしたいかってことさ。君は、ここで何をしようとしてたの?」
 少年の言葉に、ステファンは自分のするべき事を思い出した。
「ぼく、大叔父様に会わなきゃ。ね、あの階段のところまで行けないかな?」
「階段に用があるの?」
「そうじゃなくて、大叔父様に会うにはあの彫刻に道を教えてもらわなくちゃいけないんだ」
「ああ、大叔父様ってイーゴリのことか。君、彼の何?」
 ぼくは、と言い掛けてステファンは不審な目で少年を見返した。大叔父様の名がイーゴリなのは初めて知ったが、えらく気安そうなこの少年こそ、何者だ?
「ぼくはステファン。オーリ、じゃなかった、オーレグ・ガルバイヤン先生の弟子だよ。君こそ、誰?」
「ああ、オーレグ、なるほどね。この窓のトラップのこと、知らなかったはずだ。イーゴリの部屋に行きたいなら、直接行く方法を教えてやればいいのに」
 少年に可笑しそうに言われて、ステファンはむっとした。
「だから君、誰? 直接行く方法って、わ、わわっ」
 突然身体がふわりと浮き始めた。同じく少年も宙に浮きながら、ステファンの腕をつかむ。
「フローティング・ポルカだよ。広間から聞こえるだろ? 教えてもらってないの?」
「だからぼくはまだ見習いで、ひぁああ!」
 浮遊(フローティング)どころか、急に高く舞い上がりながらステファンは目を回した。腕の中の辞書だけは必死に落とすまいとしたが靴が片っ方脱げて落ちてしまった。
「ドジだな。そら、ガーゴイルに掴まって!」
 夢中で左手を伸ばし、軒下から突き出した冷たい石像にしがみつく。
「イーゴリの部屋はこの真上、三番目のガーゴイルの下にある窓から入るんだよ。じゃ、あとは自力で頑張るんだね」
「自力でって……ちょっとーっ!」
 石像にぶら下がって慌てふためくステファンをよそに、少年の姿は消えていた。


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 なんでこんなことになってしまったのだろう。

 醜悪な石のガーゴイルにしがみつきながら、ステファンは必死に足をばたつかせた。利き腕とはいえ、左腕だけでぶら下がるのにも限界がある。幸い靴の脱げたほうの足が、壁の凹凸に引っかかった。なんとかそれを足掛かりにして体勢を立て直す。が、さっきの少年が示した窓を見上げてまた愕然とした。
 ここは一階の窓の上だ。大叔父様の部屋は三階。暗い石造りの壁面には、各階の窓の上にそれぞれ一体ずつガーゴイル像が突き出している。二階のやつは顔が欠けた鳥、三階のは翼を持つ獅子の姿だ。けれどそこまで辿り着くのだってもう足掛かりになりそうな場所は無いし、どうやって上れというのだろう。
 一度降りようかと下を見たが、足が震えた。一階部分が天井の高い造りになっているためか、今居る場所は結構な高さがある。あまり運動神経が良いとはいえないステファンが硬い石のテラスに飛び降りたりしたら、足を折るかもしれない。
 どくどくという自分の鼓動と呼吸音ばかりが妙に大きく聞こえる。それをあざ笑うかのように、広間からは軽快な音楽と楽しげなさざめきが流れてくる。 
 こんなところで独り、暗い壁に取り付いたまま降りることもよじ登ることもできずに震えている自分がひどく間抜けに思えた。
 どうしよう……どうしよう……どうすればいい?
 ステファンは泣きそうになりながら目の前のガーゴイルを見つめた。
 オーリの庭に居た奴は豚っ鼻のコウモリみたいな愛嬌のある姿だったが、こいつは悪魔のような恐ろしげな顔をした怪鳥だ。大体ガーゴイルなんて屋根から水を吐き出すための雨どいに付いているのが普通なのに、なんだって窓に付いているのだろう、こんな恐い姿をして。
 
 まてよ。
 ステファンの脳裏に、オーリの言葉が浮かんだ。
――オスカーが内緒で飼っていたガーゴイル――
“飼っていた”つまりただの石像などではなく、生きて動いていた、ということだ。実際そいつはオスカーの手紙を運んで、“事切れた”。
 死んだり幽霊になったりできるのは、命を持つものだけだ。
 今、宵闇の中に白々と浮かび上がる醜悪な顔は、どこから見てもただの石像だが、ここは魔法使いの屋敷だ。食べ残しを飲み込む天使像や侵入者をつかまえてしまうカーテンがあるくらいだ、ひょっとしたら……
「あのさ、君、もしかして動いたりできる?」
 遠慮がちに訊いたステファンに、ガーゴイルはギロリと目を向けた。
「―― 命令セヨ」
「しゃ、しゃべった!」
 口も動かさずしゃべる石像に度肝を抜かれて、危うく手を離しそうになった。
「命令セヨ。ワレニ使命ヲ与エヨ」
 ガーゴイルは繰り返した。
 ステファンは夢中で体勢を直し、ガーゴイルの背にしっかりとつかまった。
「ぼくを、大叔父様……ええと、イーゴリの部屋まで連れてってくれる?」
 何も反応が無い。ステファンは息を吸い込み、大きな声で言い直した。
「あの三番目のガーゴイルの下の窓まで、飛べ!」
 ぶるぶるっと振動が起きた。硬い石で出来たはずの翼が広がる。それは羽ばたきもせず、いきなり垂直に舞い上がった。二番目の顔の欠けたガーゴイルを追い越し、三番目へ。一呼吸のうちに、ステファンは三階の窓に到着した。

「来たか、オスカーの息子よ」
 開いた窓の内側から大きな人影が迎えた。室内の明かりに目が眩んでいるうちに、その人はガーゴイルの背中からステファンを抱き取った。
「あ、あのう……?」
 面食らっているステファンを高く抱き上げたままで、その人は豪快に笑った。
「見たか、イーゴリ。こいつはオーレグより優秀だぞ!」


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 天井の照明に頭をぶつけそうになりながら、ステファンは訊いた。
「ぼくのこと知ってるの? それにお父さんのことも」
「おお知っているとも。ははは、ここで会えるとは!」
 低く響く弦楽器のような声だ。高々と差し上げる腕の力強さに圧倒される。
 オーリや父の印象が青空ならば、この人物はさらにもっと高みに有る、そう、星々の界にまで続く広い天空だ。艶を無くした白髪は幾分薄いけれど、老人という感じではない。アゴ鬚と髪が一続きになって顔を縁取る様は獅子のたてがみを思わせるし、深く皺の刻まれた額の下、銀色の炎のような目は若々しくさえ見える。
 けれどステファンはすぐに我に帰った。いくら痩せっぽちでも、もうじき十一歳になろうとしている身でこんな風に“高い高い”をされたまま話をするのはカッコ悪すぎる。
「降ろしてください!」
 じたばたと足をもがいて、絨毯の上に飛び降りた。 
「窓から入ったりしてごめんなさい。ぼく、ステファン・ペリエリです。大叔父様にどうしても聞かなくちゃならないことがあって来ました」
 早口で言いながら水晶を首から外し、オーリから託された辞書の紐を解こうとしたステファンは、ふと多くの視線に気付いて手を止めた。広間で見た美女たちは居なかったが、壁の一面が大きな水槽になっており、群青色の水妖が何体か、漂いながらこちらを見ている。さらに天井の隅には、翼を折りたたんだハーピーがくつくつと喉を鳴らして様子を伺っている。その不気味な視線に、ぞわぁと全身が総毛立つのを覚えた。
「控えよ」
 さっと右手を挙げて白髪の男が命ずると、水妖もハーピーもどこかへ姿を消した。
 この人物はきっと強い力を持つ魔法使いなのだろう、とステファンは思った。
 オスカーのことを知っているようだし大叔父イーゴリとも懇意のようだが、何者だろう。ここで手紙のことなど訊いて良いものだろうか。
 大きな暖炉の前でゆったりと揺れる革張りの椅子、その上で絹に包まれた茶色い物体がモゴモゴと口を開けた。
「訊くがよい、全て答えよう。この男も力を貸してくれようぞ。ただ待て、もうじき客人が揃うはずじゃ」
 客人とは、オーリたちのことだろうか。白髪の魔法使いはイーゴリにうなずいてみせると、自分は肘掛け椅子に深く座り、ステファンにも椅子を勧めた。 
 
 ステファンは居心地悪い思いで腰を下ろし、目の前の人物を改めて見て、不思議な思いに囚われた。
――誰かに似ている。
 襟の高い黒い服……そういえば、さっきの少年も同じような服を着ていた。
 あの時は庭が暗くて少年の目の色までは判らなかったが、この人物と似通った雰囲気があった。
 もしかしてあの子のおじいさんだろうか。
「なるほど、お前の目には子供の姿が見えたか」
 ステファンの心を読んだように呟いて、銀色の目がいたずらっぽく光った。
「“杖なんて本当は必要ないかもしれないよ。要は、自分が何をしたいかってことさ”」
 あ、とステファンは息を呑んだ。さっき聞いた少年の声だ。けれど発声したのは、確かに目の前にいる白髪の人物だ。わははは、と大きな声が響く。
「お前と庭で話したのは、私の“童心”だ。いや、なかなか面白かったぞ」
「童心? あなたが子供に変身してたってことですか?」
「いいや違う。私はここから一歩も動いてはいない。心の一部だけを飛ばしてみせたのだ。お前は見事にそれを受け止めて姿を見、会話さえした。たいしたものだ」
「心の一部だけを飛ばす? そんなこと……」
 ステファンはさっきの少年とのやりとりを思い出した。
「嘘だ。だってあの子、ぼくの腕をつかんだんです。確かに人間の手の感覚だった。それにガーゴイルのところまで飛ばした時だって、すごい力だったし」
「なるほど、触感までイメージできたとは、鋭いな。なのにお前は、自分の力で飛んだ自覚が無いのか?」
「自分の力って……ええっ?」
 そんな自覚は、もちろん無い。目まいがしそうだ。
「ふむ、二ヶ月にもなるのに初歩の魔法も教えていないのか。銀髪のヒヨッコめ、相変わらず呑気な奴だ」
 ヒヨッコ、というのはオーリを指すのか。ステファンはむっとして言い返した。
「ぼくがまだ魔法を教わってないのは、その、いろいろあったからです。オーリ先生は立派な魔法使いです」
「ほう?」
 銀色の目が面白そうに覗き込む。からかわれているような気がして、ステファンはむきになった。
「だいたいおじさん、誰? ぼくのことやお父さんのこと知ってるくせに、自分は名乗らないなんて、ずるいよ。それに先生のことヒヨッコなんて、失礼だ。
オーリ先生は尊敬できる人だから、ぼくは弟子になったんです」
「ほほう」
「それにお父さんの、オスカー・ペリエリの親友だもの。それに、ええと……そう、ソロフっていう偉大な魔法使いの弟子でもあるし」
 白髪の男は吹き出した。
「ソロフを偉大というか。お前は会った事があるのか?」
「いいえ。でも、ええと、ええと」
 顔を赤くして、ステファンは懸命に言葉を継いだ。
「オーリ先生を見ていれば、わかります。落ち込んでいる時だってソロフって師匠のことを話すと、すごく元気になるんだ。先生みたいな立派な人を育てたんだから、きっと偉大な魔法使いに決まってる!」
「カーッカカカカ」
 今度は茶色い物体が妙な笑い声を立てた。
「よう言うた、オスカーの息子よ。さあ、時は来たり。客人を迎えようぞ」
 言い終わらないうちに、ドアをせわしなく叩く音が聞こえた。
「遅いぞ、オーレグ」
 肘掛け椅子で頬杖をついたまま、白髪の男が声を掛けた。
 勢いよくドアが開き、挨拶もそこそこに飛び込んで来た者が居る。
「失礼、わたしの弟子が……ステファン! どうやって?」
 慌てて立ち上がったステファンが事情を説明しようとする間もなく、オーリの手に思い切り引き寄せられてしまった。上着のボタンが鼻に当たって痛い。
「悪かった、窓のトラップのこと、わたしは知らなかったんだ。慌てて庭を探したら靴が落ちているし、ガーゴイルは居なくなっているし、何があったかと……」
 階段を駆け上がってきたのか、心臓がおそろしく速く鳴っている。手にはステファンの落とした靴がしっかりと握られたままだ。
「トラップは去年のパーティに出ておれば判ったはずだ。ガーゴイルもしかり。つまり、事前に確認しておかないお前のミスだな。にも関わらず、この坊主はちゃんと自力でここまで来た。お前のようなヒヨッコには勿体無い弟子だぞ、オーレグ」
 白髪の男の言葉にオーリは居ずまいを正し、最敬礼した。
「ありがとうございます、ソロフ先生」
「ソロフって……ええ? じゃあ、この人が?」
 慌てて振り向き、恐縮して頭を下げるステファンを見て、ソロフと大叔父イーゴリが再び大笑いする。
 
 遅れて到着したユーリアン夫妻は、部屋の中でなぜ魔法使いたちが笑っているのかわからず、しばらく戸惑うことになった。
 

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「ユーリアン、ご苦労であった。“野犬退治”は終わったのか?」
 笑いを含んだ表情で、ソロフが眉を上げた。この部屋から一歩も出ていない、と言いながら、カニスの件を知っているような口ぶりだ。
「ええ、大人しいもんですよ。正気に戻ったら、シッポを巻いて帰ることでしょう――パセリごと天使像に喰われてなきゃ、ですが」
「ついでにソースも添えてやりゃ良かったんだ」
 苦々しい顔で呟くオーリに顔を近づけて、ユーリアンが小声で言った。
「馬鹿やろう、証拠を残さないように鼻の骨を修復するのが大変だったんだぞ。だいたい顔の真ん中を殴る奴があるか。アゴを狙うんだ、アゴを。これだから喧嘩慣れしてない奴は……」
「どちらも変わらん。暴言に対して暴力で返すとは、あまりに軽率。弟子を指導する立場の者として情けないとは思わんか!」
 ソロフの厳しい言葉に、オーリもユーリアンも反射的に“気をつけ”の姿勢をとった。叱られた小僧っ子のような二人を見て、トーニャが肩を揺らし、必死に笑いをこらえている。ステファン一人だけが、何のことだかわからず、目を見開いて大人達の顔を見比べた。
「お前は何のために絵の道を選んだ、オーレグ。いや、オーリローリ・ガルバイヤン」
 大きな皺だらけの手が、オーリの肩を捉えた。
「芸術家ならば芸術家らしい戦いの仕方があろう。それにお前はまだ若い。一時の感情に負けて、みすみす将来に傷を残すな。以前にも言ったはずだ」
 ハッと顔を上げて、オーリはソロフの目を見た。
 ほんの一、二秒。そして老師匠が微笑むのを見ると、再び銀髪を垂れた。
「先生、申し訳ありません。深く心に留めます」

「まあ説教はそのくらいにしておけ、ソロフ。わしも長くは起きておられんでの、まずは小さい坊主の話を聞いてやろうぞ」
 ステファンは慌てて辞書の紐を解き、内ポケットに大事にしまっておいたオスカーの手紙を取り出した。
「この手紙がそもそもの始まりなんです。あの、ぼくのお父さんは二年前から行方がわからなくなってて。あ、そうだ。大叔父様はぼくのお父さんのことをなぜ知ってるんですか? それからええと」
「少し落ち着かねばの、オスカーの息子よ。言葉は整理してから言うものだ。その水晶は?」
 テーブルの上で水晶のペンダントが光っている。オスカーを探すために集めた全ての情報を、トーニャがこの中に込めてくれたはずだ。オーリが手を伸ばし、水晶から鎖を外してイーゴリの顔に近づけた。
「ふむ、記録の石か。悪いがオスカーのことは、この石から直接聞くことにするぞ。そのほうが坊主も話やすかろうて。オーレグ、額に乗せよ」
 茶色いイーゴリの額とおぼしき場所に水晶が置かれた。ほどなく石は青白く光り始め、イーゴリは半眼になった。ソロフも石の上に手を置く。おそらく、一緒に水晶の記録を読んでいるのだろう。以前ステファンが眠っている間にオーリが額に手を触れていた時も、こんな風だったのだろうか。
「ふむ……ふむ。なるほどのう、よく調べたものよ……ふむ」
 モゴモゴと言っていた茶色い口は、やがて水晶の光が消えると同時にふーっと息をついた。
「ときに、この辞書を分解したのは誰かの?」
「ユーリアンですわ、大叔父様」
 トーニャが誇らしげに答えた。
「すみません、貴重な本だとはわかっているのですが。もう魔法は消えていますし、どうしても裏側を調べる必要がありましたので……」
 すまなそうに言うユーリアンを制するようにイーゴリは声をあげた。
「見事だ! 炎使いのユーリアン、ようやった。わしは一度分解を試みて、あまりの難しさに断念したことがある。お前はこういった方面に詳しいのか?」
「いえ、詳しいというわけでは……ただ、魔法書の装丁は特殊ですから、修行時代から興味がありまして。僕の専門は建築ですが、古い屋敷の設計図を調べていると、資料に紛れて時々呪わしい力を持った本に出会うことがあります。その場合一般の目に触れないうちに魔力を封じておく必要がありますので、作業をするうちに分解術も自然と身に付いたようです」
「ますます気に入った。これでオスカーの帰る道も開かれるやも知れんぞ」
「帰る道、って。大叔父様! お父さんがどこに居るか、知ってるんですか?」
 ステファンの心臓がドキンと鳴った。初めて、オスカーの居場所に関する言葉を聞けるかも知れないのだ。
「知っているとも言えるがの。全く知らぬとも……」
「はっきり言ってください!」
 苛立たしげに詰め寄ったのは、ステファンではなくオーリだった。


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「大叔父様、あなたはいつもそうだ。謎かけのような言葉に逃げて断言することをしない。古(いにしえ)の賢者の口ぶりでも真似てご自分を権威づけてるつもりか? 不愉快だ!」
「オーリ、言いすぎ。失礼よ」
 トーニャにたしなめられてオーリは一度言葉を切ったが、ステファンの顔を見て再び口を開いた。
「ある日突然父親の存在が消える、それが子供にとってどんなにショックな事か、わかりますか? 
死別ならまだあきらめもつく。だが生死もわからない、行方もわからない、そもそも“なぜ居なくなったのか”という疑問にすら、誰も答えてくれない。毎日どれだけ不安な状態と戦わねばならないか、わかりますか? それでもほんの少しでも手掛かりが見つかるならと、この子は懸命に大叔父様を頼って来たんです。それを――」
「ふむ、オスカーの話をしておるのか、それともオーレグよ、お前の父親の話かの?」
 ピシ、と音を立ててオーリの青い火花が散ったように見えた。だがそれはステファンの錯覚に過ぎず、実際は刺すような眼差しがイーゴリ大叔父に向けられただけだった。ソロフが両手を肩の位置で開いておどけるように言う。
「そういじめるな、イーゴリ。わが弟子は忠告を早速聞き入れておとなしくしている。素直なもんじゃないか」
「ではその素直さに免じて先程の非礼は許そうぞ。ソロフ、手短に説明してやってくれぬか」
 まだ鋭い目を向けたままのオーリには構わず、イーゴリは目も口も閉じてだんまりを決め込んでしまった。 

「よろしい、では久々の講義といくか」
 ソロフ師匠は銀色の目で一同をぐるりと見渡した。手にはいつの間にか古い黒檀の杖が握られている。
「さて、弟子たちよ。事を成すには時の試練というものが必要な場合がある。オスカーの手紙を見るがいい、文字の外に何が見える?」
 皆の視線が一斉にテーブルの上に注がれた。もう何度読み返したかしれない、薄黄色の紙片をじっと見つめながらステファンが答えた。
「焦げ跡、です。メルセイの熱針で焼き切ったところ」
「それもあるな。ではその熱針の材料となるものは?」
「電気石(注:)の一種です。普通は圧力や熱を加えることによって電気を発生しますが、ごく稀に空中で落雷を受けさせることによって高熱を発する結晶があり、この性質を利用して鉱物針を研ぎだすことができます」
 よどみ無く答えたのはユーリアンだった。
「その通り。では訊く、その電気石を抱く鉱物とは?」
「花崗岩……あ!」
 言いかけたオーリが目を見開いた。
「そうだオーレグ、お前の住む村でかつて切り出していた花崗岩から熱針の材料は採られた。あの村は強い磁場を持つ断層の上に有るゆえに、古くから魔法使いや魔女が好んで住み着いた場所であった。そして竜人たちには悲劇の場でもあったな」
 ステファンの脳裏に、岩の中に封じられた竜人たちの顔がよぎる。
「オスカーは魔道具の小さな針一本から材料の採石地を調べ出し、竜人たちの悲劇を知り、そして私やイーゴリの元へ辿り着いた。まるで絡まった糸を手繰るようにしてな。ふふふ、面白い奴だ。そしてもうひとつ、重要なことがある。わかる者?」
 黒い杖が手紙を指し示す。
「待って……そう、“罫線”よ。これには最初から違和感があったの。これってただの罫線じゃなくて、特別な意味が有るのではないかしら」
「よく気付いた、魔女トーニャよ」
 満足そうにうなずいて、ソロフは紙片を手に取った。
「この十二本の罫線、これはおそらく“時”を象徴するものだ。オスカーが巡らねばならない時間の長さなのか、それとも――」
「時間の? じゃあ」
 ステファンは懸命に考えを巡らせた。
「お父さんが居なくなってからもうすぐ二年だから、十二時間でも、十二ヶ月でもないよね……まさか、十二年も帰って来られないって意味ですか?」  
「そうとは言ってない。そんな絶望的な顔をするな」
 ソロフが目を向けて微笑んだ。
「この紙を辞書の表紙見返しとして使うことによって、辞書の本体に書かれた言葉は守られていた。だがその片方が切り取られ、守りが失われたとなると、辞書に書かれた言葉の魔力はバランスを失って暴走し、最悪の場合、術者を飲み込むことになろう。オスカーはそれを覚悟した上で、帰る道しるべとして十二本の線を書き残したとも考えられる。その代わり、切り取られた紙片に書かれた言葉は強力な守りと拘束力を得たはずだ。そうだな、オーレグ」
「手紙に拘束力など無くても、わたしはオスカーの願いを叶えるつもりでした。現に、そこに書かれた二年という期限を待たずにステファンを迎えに行ったんだ。ではオスカーは、やはり辞書の中に?」
 沈痛な表情のオーリの隣で、突然ステファンが悲鳴を上げた。
「どうしよう! ぼくとお母さん、魔法を解いて辞書の文字を消しちゃったんだ。お父さんも一緒に消えちゃったかも!」
「慌てるな、どうもお前さんは早とちりすぎるな」
 苦笑いをしながら、ソロフは椅子の上のイーゴリに向き直った。
「どうだイーゴリ、まだ起きていられそうか?」
「むろん。お前の力を見届けねば、な」
 大叔父イーゴリは、茶色い目らしき場所を片方だけ開いて、ニィと気味悪く笑った。
「さて、では」
 ソロフは部屋の中央に立つと、足元に辞書と手紙を置き、杖でトン、と床を突いた。床に金色の紋様が浮かび上がる。一同はさっと飛びのいて、その様子を固唾を呑んで見守った。
「オスカーが今どこに居るかは判らぬ。書き記した十二という数がどういう単位の時間を示すのか、または別の意図があるのかもな。だが辞書の守りが解かれた今なら、彼の意識にまで辿り着けるかも知れぬ。やってみよう」
 足元の紋様は眩いほどに強い光を放ち、ソロフの髪が逆立つ。
「しっかり見ておくんだ、ステフ」
 ステファンの両肩に手を置きながら背後に立つオーリが、緊張した声でつぶやいた。
「あれが、本物の同調魔法だよ。師匠は今、わずかに残った手掛かりを手繰って、オスカーの意識に繋がろうとしているんだ」

 金色の光の中でソロフは目を閉じ、水に潜るように意識を集中している。
 深く。深く。さらに深く。
 やがて光の中に、人間の輪郭のようなものがおぼろげに現れ始めた。
「お……父さん!」
「オスカー!」
 二人の叫ぶ声が、同時に部屋に響いた。


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 光の中の人物は次第にはっきりとした像を結びだした。少し癖のある黒髪、彫りの深い顔立ち。ステファンに似た鳶色の目が、驚いたように見開いた。
「ステファン……ステファンか?」
「お父さんっ!」
 駆け寄ろうとしたステファンをオーリが捕らえた。
「だめだ、ステフ。オスカーもそこで止まれ!」
「どうして!」
 ステファンは必死に腕を振りほどこうともがいた。
「だってお父さんだよ、あんなに探したんじゃないか。そこに居るんだ、離して先生! お父さんのところに行くんだ!」
「そこに見えるのはオスカーの“意識”だ、実体じゃない。それに同調魔法では対象に触れちゃいけない。でないと、術者の意識がこちら側に戻れなくなる。君だってファントムに助けられただろう!」
「落ち着きなさい、ステファン」
 オスカーの声に、ようやく我に帰ったステファンは暴れるのを止めた。
「……お父さん、本当にそこに居ないの? だって話ができるよ? 前にぼくが同調魔法使った時は、ぼくの声はお父さんに聞こえてなかったのに」
「それは、君の同調した対象がオスカーの“記憶”だったからだ。記憶は過去。けど今見えているオスカーはわたし達と同じ時間の上に居る。
そうだな? オスカー」
「ああ、そのようだ」
「無事なのか? そこはどこだ?」
 まだステファンをしっかり押さえたまま、オーリの声は震えている。
「今は答えられない。君たちの居る世界ではない、とだけ言っておこうか」
 オスカーの鳶色の目が悲しげに微笑んだ。
「杖を持つ魔法使いと違って、僕のような者が魔道具を使うとなると、いろいろ制約があってね。口外できないことも多いんだ――ソロフ師の意識を間近に感じる――そうか、これが同調魔法なのか。息子がそこに居るということは、僕があの手紙に託した願いを君が聞き入れてくれたということだね。感謝する、オーリ」
「なにが感謝だ、あんな手紙じゃ何もわからない。皆をどれだけ心配させたと思う!」
 オーリは銀髪を振って顔を伏せた。
「こんなことなら、忘却の辞書なんて貸すんじゃなかった。オスカー、君はこうなることを覚悟の上で辞書を使ったのか? まさか帰らないつもりじゃないだろうな」
 オーリの問いには答えず、鳶色の目はただ懐かしそうに友人や息子を見ている。
 ステファンの腕を掴むオーリの手に、痛いほどの力が込められた。すぐ目の前に姿が見えるのに、手を取ることすら出来ない悔しさをこらえているのは自分だけではない、とステファンは気付いた。
「離してください、先生」
 ステファンは涙を浮かべてはいたが、落ち着いた声で言った。
「大丈夫、お父さんには触れないよ。ただもうちょっとだけ、近くで顔を見させてください」
「ステファ……」
 オスカーの手がピクと動いた。久しぶりに会えた息子を抱きしめたいのに違いないが、拳を握り締め、かろうじて押さえている。父と息子は手を差し伸べ合うこともなく、お互いの顔を見つめて向かい合った。
「大きくなった。男の子らしい顔になってきたな、ステファン」
「ぼくは相変わらずチビだよ。お父さんは、ちっとも変わってない。最後に見た時のまんまだね」
 ステファンは無理をして笑顔を作った。いつか、オーリがそうしていたように。
「ああ、そうだな。ここでは時が流れていないから。空腹も、疲れも感じない奇妙なところだ。敢えて言うなら、時空の間隙、とでもいうのかな」
「オスカー、なんでそんな所に行っちまったんだ? なんとか出られないのか?」
 ずっと黙っていたユーリアンが、たまりかねたように声を掛けた。
「君は……ああ、ユーリアンだ。それと、トーニャ? 驚いた、二人ともあんまり綺麗なんで人形かと」
「冗談言ってる場合かよ、自分の状況を心配しろ。相変わらずだな、この男は」
 涙声になりそうなユーリアンは、赤くなった目を逸らした。
「お父さん、ひとつだけ教えて。ぼくが魔力なんて持って生まれたたから、お母さんとケンカになっちゃったの? もしそうなら、ぼく家では二度とあんな力使わない。いい子でいるように努力するよ。だから、帰ってきて。お母さんのために帰ってきてあげて!」
「ステファン、それは違う」
 オスカーは首を振った。
「お前は生まれてきてくれただけで、かけがえの無い“いい子”なんだよ。悪いのは、お父さんなんだ。いつも夢ばかりを追いかけて、遠い過去の世界ばかりを見て、現実に目の前にいる人を大切にしてこなかった。忘却の辞書を使ったのも、お母さんの心を病ませてまったことへの、せめてもの罪滅ぼしなんだ」
「お母さんは、病んでなんかいないよ。ごめん、せっかくお父さんが掛けた魔法だけど、ぼくとお母さんで解いちゃった。でもお母さんは泣いてなんかいない。自分から伯母さんと話し合いに行くくらい、元気になったんだよ!」
「ミレイユが? そうか……良かった」
 オスカーは目を閉じ、安心したように微笑んだ。

「もう、あまり時間は無いぞ」
 ソロフの顔が苦しそうに歪んできた。
「待ってください。師匠。オスカー、あの十二本の罫線の意味するものは何だ? もう辞書の魔法は解けているんだ、君が戻るためにこっちから働きかけることはできないか?」
「残念ながら、その問いにも答えるわけにはいかないな。だが僕は必ず帰る。それまで息子を頼むよ――ああ、視界が薄くなってきた。ステファン、いいかい、いつも顔を上げるんだよ。自分の力に誇りを持つんだ。ミレイユに伝えてくれ、ずっと愛していると。けどこれからは自分の幸せのために生きて欲しいと。オーリ、大切なものからは決して手を離すな。そしてユーリアン、トーニャ。子供は、希望そのものだ。きっと――」
 そこまでしか声は聞こえず、オスカーの姿はかき消えた。
「待って、待って、お父さんっ!」
 夢中でオーリの腕を振りほどいたステファンは、オスカーの残像を捕まえようとするかのように、むなしく空間に手を伸ばした。

「フフ……フ、ちと無理が過ぎたな」
 ソロフの身体がぐらりと傾く。
「師匠!」
「ソロフ先生!」
 同時に駆け寄ったオーリとユーリアンに両側から支えられ、老いた魔法使いは深々と椅子に身体を沈めた。
「オスカーめ、自分の言いたいことだけいいおって。私やイーゴリへの礼は無いままか……」
 ソロフは荒い息を吐きながら、それでも満足そうな目をしていた。
「先生、ご無理をさせてしまいました。オスカーに代わって感謝します」
 オーリは目をしばたたかせながら、老師匠の両手をしっかりと握った。
 
「ステファン?」
 トーニャが背中に手を触れると、我に帰ったようにステファンは目をぬぐった。
「お父さん、必ず帰るって言ってたよね」
「ええ、そうね」
「ぼくのこと、いい子だって言ってくれたよね?」
 振り向いたステファンは、もう泣き顔などではなかった。
「もちろんよ。皆、そう思ってる」 
 ステファンはトーニャに笑顔を向けると、部屋を横切り、ソロフの白髪頭に飛びついた。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう! お父さんに会わせてくれて。ぼく、何て言ったらいいか――とにかくありがとうございます! 先生の先生、やっぱりすごいや。大叔父様も、ありがとう!」
「ふははははっ」
 ソロフはステファンの頭をなでながら、心底嬉しそうに笑った。
「見たか弟子たちよ、これが本物の“童心”だ。このくらい真っ直ぐに自分を表してみよ。どんなにか生き易くなるだろうに。 なあイーゴリ、そう思わんか?」
 椅子の上の茶色い物体は、答えない。どうやら眠りについてしまったようだ。

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 眠りに付いたイーゴリ大叔父を見やって、ユーリアンが老師匠を気遣った。
「師匠も少しお休みになったほうが……」
「そうだな。では今日最後の講義だ。座りなさい、弟子たちよ」
 ソロフの言葉に全員が居ずまいを正してソファに座った。
「オーレグ、お前が指摘したようにオスカーは今、過去でも未来でもなく、我々と同じ時間の上に居る。だがその一方でこうも言っていた。“ここには時間が流れていない”とな。さて、これがどういうことか判る者?」
 一同が戸惑って顔を見合わせる中、オーリが口を開いた。
「以前オスカーと議論したことがあります。時間とは静かに流れる川の水のようなものだ。けれどそこに舟を浮かべ、さらにその中に水を張ったら? 中の水は“川と共に流れている”が、“舟の中で同じ状態を留めている”とも言える。つまり――そういうことですか?」
「おおむねその考え方で正しい。オスカーの息子、言っていることが判るか?」
「わかんない」
 ステファンは正直に答えた。
「ではもっとはっきり言おう。オスカーはおそらく、時間を自由に行き来する能力があったのだろう。“水を張った舟”に守られたまま、川を遡ったり下ったりするようなものだ」
「まさか!」
 ステファンが叫ぶ隣で、オーリが眉を寄せた。
「いや。うすうすわたしもそう思ってはいた。彼は時々過去の事象を実際に見てきたように克明に話していたからな。それに、思い出してごらんステフ。オスカーが実際に魔法を使ったのは十一月六日、つまり彼が姿を消した日だ。けれど手紙をガーゴイルが運んだのは十二月。このタイムラグをどう説明すればいいか、ずっと考えていたんだ」
「おいおい! 大変なことをさらっと言うなよ」
 ユーリアンが頭を抱えた。
「過去を観る能力を持つ者は確かに居るよ。けどそれは同調魔法に近い力だ。観ることはできても、過去の事象に干渉するのはタブーだろう。オスカーはそのタブーを犯して十二月から十一月に戻って魔法を使ったとでも言うのか?」
「おそらくはね。もしそうだとしたら、彼がああなったのは辞書のせいばかりじゃないな……」
 沈痛な空気が流れる中、パン、パン、と手を叩く音が響いた。 
「ふふ、時の試練とは面白いものよ」
 ソロフは疲れた顔をしながらも誇らしげに弟子達を見回している。
「手のかかるヒヨッコも一人前にものを考えられるようになったな。大丈夫、オスカーは戻ってくるとも。それを信じて待つのもまた“試練”だ。わかるかな」
 皺だらけの大きな手がステファンの肩に置かれた。
「でも、いつまで?」
「はっきりとは断言できぬが、そう遠い未来ではなかろう。さっき彼の意識と繋がった時、戻ろうとする明確な意思を感じたからな。これは一種の時限魔法かも知れぬ。オスカーのことだ、無鉄砲な若造のような魔法は使うまい。何らかの条件を付けてこちら側に戻る方法は確保しているはずだ」
「そう、信じたいです」
 オーリが沈痛な顔でうなずいた。

「ときに、オーレグよ。お前の父シャーウンとオスカーは、似たところがあるな。お前はオスカーに自分の父親を重ねて見ていたのではあるまいな?」
「それはないです、ソロフ先生」
 オーリは苦笑した。
「確かに共通点はあります、魅いられたように遺跡の研究に没頭して、家庭を顧みないところとかね。ですがわたしの父はただの壁画絵師です。東洋人ということもあって祖父や大叔父には随分嫌われていた。オスカーのように魔力でもあれば受け入れてもらえたのでしょうが」
「え、先生のお父さんって魔法使いじゃなかったの?」
 驚くステファンに、オーリは悲しげな目を向けた。
「ああ。絵が描けるという以外これといって特別な力の無い、ただの男だよ。わたしが五歳の時にこの国を追われたというから、あまり覚えてないんだけどね」
「それについては少し訂正しておこう」
 ソロフが手を挙げた。
「お前は自分の家族が離散することになった原因を、イーゴリのせいと思っているようだがな。あの絵師の才能を惜しんだゆえに国外に脱出させたのは、お前の母オリガだ。お前も知っておろう、二十年前に魔法使いがどういう扱いを受けていたか。魔力を持たぬ彼にまで我々と同じ荷を負わせるわけにはいかぬと、オリガは考えたのだ」
「母が? そうなのですか?」
「私は覚えているわよ、オーリ」
 トーニャが口を開いた。
「叔母様は言っていたわ。“シャーウンは壁に心を刻み、私は息子に心を遺す。いつか時が満ちる日、オーレグは全てをわかってくれるはず”とね」
「時が満ちる日……」 
 オーリは唇を噛んで自分の手を見つめた。ソロフがうなずきながら、歌うように言う。
「時の試練とはまことに、不可思議で面白いものよ。あたかも巨大樹の成長を見守るがごとし。時代は変わった。魔女も、魔法使いも、これからは魔力だけに頼るのではなく、どう生きてゆくかが問われることとなろう。さあ、弟子たちよ、私の講義は終わりだ。あとは各々が自分の進むべき方向を見誤らないことだ」
 語り終えると、満足そうにソロフは目を閉じた。


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 部屋を辞しても、しばらくの間誰も口をきかなかった。皆、それぞれに思うところがあったのだろう。螺旋階段の古いカーペットを踏みながら、ステファンは父オスカーの言葉を思い出していた。
 必ず帰る、と父は言っていた。けれど、いつ? 
 そう遠くではないとソロフは言ってくれたが、その日まで父の顔を忘れそうで怖くなる。
「そういえばぼく、お父さんの写真を持ってなかったっけ」
 思い出したようにつぶやくステファンにユーリアンが声を掛けた。
「オスカーは自分の写真を撮ることには興味なかったみたいだしなあ。あんなに遺跡の写真を撮りまくってたのに」
「案外そういうものだよ。わたしだって自画像は練習用にしか描いたことはない――いや、家族の絵もか」
 オーリは何か考え込むように口をつぐんだ。
「そういえば僕も他人の家ばかり設計して、自分の家は借家のままだよ。何だ、“遠い夢ばかり追って”って言われそうなのは、オスカーばかりじゃないな」
「まったく。男ってどうしてそうなのかしら」
 辛らつなトーニャの言葉に、一同は苦笑し合いながら階段ホールに降り立った。
 
 分厚いドアの向こうからは広間の音楽が聞こえてくる。
「どうする? 今なら最後のワルツくらいには間に合うと思うけど」
 ドアを指差すユーリアンに、トーニャは首を振った。
「やめとくわ。お母様に会ったらまた小言をいわれそうだし、アーニャのことも気になるから帰らなくちゃ」
「アーニャならもう眠っているだろう。明日の朝まで預かるよ。どうせお腹のベビーが生まれたら静かな時間なんて無くなるんだろうから、今日くらい水入らずで過ごせば?」
 気を利かしたオーリの言葉に夫妻は顔を見合わせ、笑った。
「そうだな、娘の様子ならトーニャの鏡で見られるし、何よりマーシャさんが付いててくれるから心強い。じゃ、帰りますか“奥様”」
 おどけたように腕を組みながら、ユーリアンは片手を挙げてオーリに感謝を示すと、海岸に続く庭へ向かった。

「家族、か」
 夫妻を見送るオーリは、何かを思い出すように呟いた。
「そうだ、さっきソロフ先生が言ってたけど、先生のお母さんって? 今どこに住んでるの?」
「さあね、あの辺かな」
 オーリは星々の煌めく夜空を指差す。つられて空を見上げたステファンは、はっと顔を曇らせた。
「ご、ごめんなさい。天国に行っちゃったんだね」
「謝ることはないよ。母とアガーシャが事故で亡くなったのは、もう二十年も前なんだ」
 オーリは暗い庭に出て歩き始めた。
「あまり多くは覚えてないけど……優しい人だった。でもひどい時代だったから、魔法を人前で使うところは見た記憶がないな。母が“賢女”という、魔女界では最高位の称号を持つ人だったと知ったのは、ずっと後になってからだよ」
「じゃあ、アガーシャは?」
「彼女はある意味、一族の犠牲者だ」
 庭のはずれに建つ岩壁に向かうと、音も無く海岸への道が開いた。来る時のように名乗りを上げなくとも良いようだ。
「ここなら悪口を言っても大叔父様には届かないな」
 オーリは皮肉な表情で岩壁の間を進む。
「魔法を使う連中なんて、偏屈なんだよ。だから一族で固まって、限られた中から伴侶を選ぶのが常だ。でもそうやって血の濃い者同士が結婚を繰り返した結果、アガーシャのように一つの力だけに特化したような魔女が生まれることもあった」
「一つの力だけって……あんな赤ん坊の姿なのに?」
「だから、それが彼女の力だった。つまり“一生無垢な赤ん坊で居る”ってことさ」
「一生ずっと? 二百六十年も生きたのに、成長しなかったの?」
「ああ。まさに“童心”の権化さ」
「皮肉なものだね、オーレグ」
 突然の声に驚いて二人が振り向くと、岩壁の入り口に黒い服の少年の姿が見えた。
「あ、ソロフ先生……」
 黒い服の少年――ソロフの“童心”は、道には入ろうとせず、入り口に立ったまま涼しい声で続ける。
「現実主義の魔女の最長老が、成長しない赤ん坊アガーシャだった。対して“童心”を重んじたはずの魔法使いの長老は干からびた姿でどうにか命を保っている。ステファン、君ならどっちがいい?」
「どっちもやだ。ぼくは何百年も生きたくないし、“童心”なんてよくわかんない。普通に成長するんじゃダメなの?」
 ステファンの言葉がおかしかったのか、少年は笑い声をたてた。
「ところでオーレグ、君もまだこの姿が見えるんだね。大丈夫、失ったものはいつか取り戻せるよ。より遠い血とより近い魂を伴侶に生きるんだ。オリガもシャーウンも果たせなかったことが、君にはできるはずだよ」
「そう願いたいですね」
 オーリが応じると、軽く手を振って少年の姿は消えた。
「ソロフ先生、見送りに来てくれたんだ。でも“心の一部だけ飛ばす”なんて器用だね。眠ったんじゃなかったの?」
「あの師匠なら眠りながら北極までだって行けるさ。やれやれ、口調まで子供に変わるんだからまったく……」
 オーリは苦笑いしながらも、ソロフの去った方に向いて目礼した。
 
 岩壁に挟まれた道を抜け、石畳の上に出ると、ユーリアンたちの姿はもう無かった。ただ遂道の入り口を示す白い紋様だけが、人影に反応するかのように微かな光を発している。けれどオーリは遂道に向かおうとはせず、海風に吹かれて白い月の浮かぶ夜空を見上げた。
「……そうだな、久しぶりに飛んでみるか」
「え、飛ぶって?」
「こんな月のいい夜に遂道なんて面白くないだろう。ステフも自力で飛ぶことを覚えたんだよな?」
 振り返ったオーリは悪戯っ子の顔になっている。ステファンはいやな予感がして後ずさりした。
「ちょ、ちょっと待って。飛んだといってもぼく全然知らずに……ガーゴイルもここには居ないし」
「誰がガーゴイルなんて使うと言った!」
 がし、と脇腹を抱えられたと思うと、次の瞬間には二人とも海の上に高く飛翔していた。
「ひぇええええええ!」
 ごうごうと風の舞う音がする。周り中の景色が渦巻きのように歪む中、ステファンは振り落とされないようにしがみつくのがやっとだった。
「死ぬ死ぬ死ぬーっ!」
 大げさではなく本当にそう思った。呼吸ができない。上下左右の感覚もむちゃくちゃ、熱いのか冷たいのか判らない強い風の中をオーリは飛んで行く。これはひどい。アトラスに乗って飛んだほうがまだましだ。

 時間にしてどのくらいだったのか、突然硬い地面を靴の裏に感じて、ステファンは前のめりに転んだ。ようやくどこかに降り立ったのだ。ホッとした途端、吐き気が込み上げてきた。
「おえ……」
 頭の中がぐらんぐらんだ。でたらめに揺れる視界の中に、見覚えのある白い家と灯りが見えた。
 玄関ドアが開き、真っ赤な髪がかがり火のように踊り出る。
「オーリ! ステーフ!」」
 真っ直ぐに走ってくるのはエレインだろうか?
 たった二時間ほど留守をしただけなのに、十年ぶりに会うみたいにに両手を広げて来る。
 冗談じゃない。この状態であの怪力ハグなんてされたら、死ぬ。
 ステファンは焦ったが、秋バラの植え込みの前でエレインは急に立ち止まった。
 何か言葉を飲み込むかのように口を引き結んで、バツが悪そうにオーリを見ている。目を真っ赤に泣き腫らしているように見えるのは、月明かりのせいだろうか。
「より遠い血とより近い魂……」 
 そうつぶやいたオーリもまた泣き笑いのような顔を見せた。ステファンの目の前で一足に植え込みを飛び越え、そのままエレインを抱きしめる。
「ちょ、ちょっとオーリ!」
 驚きながらもいつもの怪力で突き飛ばすわけでもなく、エレインはただ固まった。
「なに、いきなり……離しなさいよ」
「“やなこった”」
 出発前にエレインから言われた言葉をそのまま返し、オーリは離すどころかいっそう腕に力を込めた。

 もう、勝手に感動の再会劇でもなんでもやっててくれ、とステファンは頭を振った。とにかく胃の中がでんぐり返りそうで吐き気が治まらない。何か薬草茶を出してもらわなきゃ……
 よたよたとステファンが玄関に向かうと、マーシャが出迎えてくれた。
 
 オーリとエレインがその後何時頃家に戻ったのかは、知らない。

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 翌朝、アーニャを迎えに来たユーリアンが意味ありげに笑いながら朝刊を見せた。
「いいニュースだオーリ。例の“花崗岩”の事件が暴かれたせいで、竜人管理法がどうなるか、微妙になってきた」
 朝刊の三面には、竜人が封じ込められた岩の写真と共に過去の忌まわしい事件に関する簡単な解説が、“写真提供:魔女出版”として載っていた。
「何? 何て書いてあるの?」
 人間の文字が読めないエレインは写真を食い入るように見つめている。
「署名記事が付いているな。落雷によって竜人迫害の事実が暴かれたことを天啓と考えるべきでは、だってさ。よく言うよ今頃になって」
「あの落雷の後、オーリが連絡をくれたから良かったんだ。お陰でトーニャの同僚がすぐ写真を撮りに行って他社にもばらまいたもんだから、昔事件に関わった魔法使いどもが慌てたのなんの。見ものだったぜ」
 ユーリアンは面白そうに笑ったが、オーリは冷静に頭を振った。
「悪いけどユーリアン。ゴシップ好きの大衆紙や魔法使いしか読まない隔週誌が書き立てたくらいじゃ、管理法を変えるほどの影響は無いんじゃないかな。何しろ何十年も昔の事件だし、今さらって気もする」
「いや、今だから意味があるんだよ。さきの大戦から七年、世の中が豊かになるにつれて、自分達のしてきた事に疑問を持つ人間が増えてきたんじゃないのか? 事実水面下じゃお堅い連中も動いているらしい。もともと“管理法”に反対していた議員連中が証拠の岩を保護するために魔女の協力を求めてきたって話も聞くしね――おっと、早く帰らなきゃ。おいでアーニャ、ママが待ってる」
 ユーリアンに抱き上げられて、アーニャは満面の笑顔を見せた。
「パパ、アーニャいっぱいとんだよー」
 今朝早くから目覚めたアーニャは、森に守られたオーリの家の周りを存分に飛び回ってすっかり満足したようだ。
「またいつでもいらっしゃい、小さい魔女さん。ここは守られた場所だから、いくらでも飛んでいいからね」
 守られた場所――エレインの言葉を、ステファンは胸の中で反すうした。確かにこの家は、そうなのかも知れない。竜人も、魔女も、魔法使いも、周りに気兼ねせずに本来の自分でいられる。けれど本当は、街の中だろうが学校の中だろうが、いつでもありのままの自分でいられたら、どんなに楽しいか知れないのに。
「今度来るまでには、ぼくもちゃんと飛び方を覚えるからね」
 小さいアーニャの頭を撫でながら、ステファンは本気でそう思った。
 飛びたい。昨日みたいにオーリに振り回されるのではなく、自分の力で。自分のやりかたで。
 ユーリアン親子が帰った後、オーリもまた空を見ながらじっと何かを考えていた。

 午後、オーリはアトリエに大きな縦長のカンバスを持ち込んだ。
 描きかけのまま屋根裏で眠っていた絵だという。なぜそれを今持ち出したのか、覆い布を外しながらオーリは感慨深そうに絵を見上げた。
「以前描いていた時にはなぜ挫折したのか分からなかった。マティエール(画肌)が気に入らないだの、構図がどうだの、表面的なことばかり気になってね。でも違う。この絵に何が足りなかったのか、今ならはっきり分かるよ」
 こんな綺麗な絵に何が足りないのだろう、とステファンは不思議な思いで見上げた。淡い色彩で描かれた画面は、なるほどまだ下絵の線が残っていたりする個所はあるが、ステファンにはこれだけでも充分なように思える。縦長の画面に何人かの人物が上へ、上へと向かうような姿勢で並ぶのは、何かの舞踊だろうか。一番上の空に近い場所に描かれた人には翼のような物も見えるから、天使でも描こうとしたのだろうか。 
 ステファンの隣で同じように首を傾げているエレインの肩に手を置いて、オーリは力強く言った。
「エレイン、君を――いや、竜人フィスス族を描かせてくれ!」
「フィススの絵を?」
「そうだよ。傲慢な人間どもに思い出させてやるんだ、かつて竜人という尊い隣人が大勢居たことをさ」
 オーリはステファンにも明るい瞳を向けた。
「ソロフ師匠の言葉を覚えているかい? 絵描きには絵描きなりの戦い方があると言ってたろう。悪いが今からしばらくは、絵の制作が中心の生活になるよ。ステフ、君には助手を努めてもらうけど、いいかな」
「もちろんです!」
 張り切って答えたステファンは、ああこの目の色だ、と思った。最初にオーリに会った時と同じ、自信に溢れた力強い水色の目。やっぱりオーリローリ・ガルバイヤンはこうでなくちゃ。
 
 胸いっぱいに吸い込んだ風は、張りつめた新しい季節の香りがした。


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 その日のうちに、オーリは描きかけの画面全体を油で薄めた深緑の絵の具で塗りつぶしてしまった。
 なんて勿体無いことをするんだろう、とステファンは思ったが、もとより絵のことなんかわからないし、黙って見ているしかない。それにオーリの目の輝きを見ていると、ここから何が生み出されるのだろうという期待のほうが勝ってくる。
 アトリエに、再びエレインが戻ってきた。
 相変わらず気ままに梁の上に寝転がって面白そうに作業を眺め、時折からかうような言葉を投げてくる。けれどそれだけで、寒々としていた部屋の雰囲気がいっぺんに変わり、皆をホッとさせるのは不思議だった。
 
 イーゼルに乗せると天井に届きそうなカンバスは、長身のオーリといえども画面の隅まで描き込むとなると大変だ。最初のうちはイーゼルに付いたハンドルで高さを調節しようとしていたが、重いので諦めたらしく、オーリは脚立を持ち込んで描き始めた。
 こと絵に関しては、オーリは一切魔法を使わない。数本の筆と刷毛とナイフを駆使し、描く、描く、ひたすら描く。 ステファンは助手といっても絵が描けるわけでもなし、オーリから指示された番号の絵の具を手渡したり、筆を取り替えたりするくらいしかできない。魔法修行とは何ら関係なさそうだが、それでも初めてオーリの役に立てる誇りで胸が躍った。
 問題はエレインだ。
 剣を構えたり弓に矢をつがえたりしてモデルを務めるはずが、ものの五分とじっとしていられないらしく、しばしばオーリに文句を言わせた。
「あーもう台無しだ! なんでそう動きまわるんだよ」
「だって退屈なんだもん」
「あの落ち着きのないユーリアンだって絵のモデルくらいは務まったぞ、君は筋力はあるくせにこらえ性がないんだ!」
「偉そうに言わないでよヘボ絵描き!」
 また、騒々しい日々が始まった。けれどステファンはもう心配しなかった。お互いの鼻先に噛み付かんばかりに大声でわめき合っていても、二人の間の空気が以前とは全然違うことに気付いたからだ。
「せんせーい、あんまりエレインを怒らせてると絵の中の人まで怖い顔になっちゃうよ」
 落ち着いたステファンの声に二人は吹き出し、それぞれの位置にまた戻る。

「おやまあ、すごい臭いだこと」
 アトリエにお茶を運ぶマーシャが顔をしかめた。
「いくらお仕事に熱中してても換気はしなくちゃいけませんよ、オーリ様。ステファン坊ちゃんにも良くありません」
「溶き油の臭い? ぼく慣れちゃったよ」
「そうら、その“慣れる”っていうのが良くないんです」
 マーシャは厳しく言って窓を全開にした。
「確かに揮発油の臭いは身体に良くないな。悪かった、ステフ。助手を頼んだからといって一日中アトリエに篭っていることはない、時々は外に出て遊んで来ればいいよ」
「それで言うんなら絵の具も毒なんでしょ。絵筆を口にくわえるクセはやめなさい、オーリ。あたしまで被害を受けるから」
 お茶を飲もうとしていたオーリは顔を赤くして咳き込んだ。

 そんな日々を送るうちに、不思議な変化が起きた。
 オーリは以前のように大食しなくても魔力を保てるようになって、マーシャを大いに驚かせた。逆にエレインは人間の食べ物に興味を持って、甘いデザートくらいは恐る恐る口にするようになってきた。
「無理に人間に合わせることはないんだよ」
 心配そうなオーリにエレインは首を振った。
「別に無理はしてないわよ、前から食べてみたかったの、本当は。でもなんか、怖くてさ。人間の食べ物を食べちゃうと、竜人じゃなくなるような気がして」
「何を召し上がろうと、エレイン様はエレイン様でございますよ」
 マーシャは嬉しそうに言った。
「確かに。この二年間酒とお茶しか口にしなかったのに、その丈夫そうな犬歯は衰えそうにないもんな」
「竜人の牙と言ってちょうだい」
 軽口の応酬をしておいて、エレインはふと真顔になった。
「ねえオーリ、竜人と人間の祖先って、どのくらい近いのかしら」
「祖先? さあ、どうかな。どうして急にそんなことを?」
「確かフィスス族を生み出したお母さんは、紅い竜だったんだよね」
 ステファンは落雷の時に見た美しく大きな竜を思い出しながら言った。
「創世譚では、そういうことになっているわ。でもわからないのは“始めの父”よ。東方から来た皇子、という以外には何も伝えられていないの。今まで知ろうとも思わなかったけど……」
「似たような話なら、人間の世界にもあるさ。母は昔、父のことを“東洋の龍の子孫”だと言っていた。もちろんそんなのはおとぎ話なんだけど、子供の頃は本気で信じていたよ」
「それ、本当におとぎ話なの?」
 エレインが目を輝かせた。
「ああ、残念だけど。でも、祖先のことはともかく、フィスス族の存在を知った時に不思議に親しみを覚えたのは事実だ。母の言った東洋の“龍”というのは西洋ドラゴンと違って、翼がないんだ。それに、雷や雨を司るとも言われている。フィスス族の始母竜の話と驚くほど似ているね。それと、ガルバイヤンという姓――祖父ヴィタリーの通り名だが――も、“雷を操る”という意味を持っている。なんだろうね、この類似は」
 
 窓から吹き込む風が、黄金色の落ち葉を運んできた。秋の午後は短いが、まだ陽は輝いている。オーリは席を立ち、散歩に行こう、とエレインを誘った。
「ステファンも来るかい?」
「ええと――ううん、いいや。ぼく、“半分屋敷”の手入れをしなくちゃ」
 ステファンだってもうじき十一歳だ。こんな時に“おじゃま虫”になるほどお子ちゃまではない。オーリ達よりひと足先に外に出て、庭に向かった。

「運命というものですよ」
 マーシャはオーリ達を見送りつつ一人で微笑んだ。
「わたくしは最初から分かっておりました、エレイン様は来るべくしてオーリ様の元にいらした方なんです、きっと」 

 ステファンは庭草に埋もれた“半分屋敷”の前で腕組みをして考えた。手製の日除けはもう要らない。その代わり、寒くなるまでに崩れた壁を自分で直してみよう、そう思った。たとえ時間がかかっても、不恰好でも、一つ一つ石を積み上げていくのだ。オーリの魔法に頼るのではなく、自分の手で。
 庭草の間に白い物が光っている。ステファンが置き忘れた蝋石(ろうせき)だ。夏の間はこれで壁石に落書きをして遊んだ。
「――捕まえた!」
 ステファンが手を伸ばすと、小さな蝋石は真っ直ぐに飛んで手の中に納まった。今はまだこんな力しかない。でも、もう頭痛は起こらない。ステファンは満足そうにうなずいて、一番大きな壁石に自分の名前を記した。


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 アトリエから出ると、廊下は秋の陽射しが斜めに差している。来客にお茶を出すという初めての“大役”を果たしたステファンは、盆を抱えてホゥとため息をついた。
 最近オーリは、夜も昼もなく絵の制作に没頭している。と共に、アトリエのお客も頻繁に来るようになった。オーリが今取り組んでいるあの大きな絵の出品について話し合うためだ。

「どうやら間に合いそうだね、ガルバイヤン」
 午後のアトリエでお茶を飲みながら、客人はホッとしたように言った。
 薄い金髪をきれいに撫でつけた頭で何度もうなずき、眼鏡の奥から灰色の目を輝かせてにオーリの絵を見ている。
「まだ八分がたってところですが。大丈夫、ちゃんと仕上げるから」
「今回は店の展覧会とはわけが違う。アート・ヴィエーク主催といえば海外からも目の肥えたお客が集まるからね。うちのブースの目玉にしたいんだ」
 立ち上がり、正面からしげしげと絵をみていた客人はオーリを振り返った。
「それにしてもだ。作風が変わったのは仕方ないとして、なんで名前まで変えたかね。十代の頃本名で描いてた時は天才児とか騒がれてたのに、みすみす看板を架け替えるようなもの……あ、いやその」
 水色の目が不愉快そうにこちらを向いたのを見て、客人は慌てて話題を変えた。
「相変わらず描き始めると早いな。もっとも取り掛かるまでが遅くていつもハラハラさせられるが」
「早くないですよ。昔の聖堂で壁画を描いてた絵師達の仕事はこんなものじゃなかったはずだ」
 オーリは遠い目をしてカンバスを見上げた。
「壁画、か。なるほどそんな雰囲気もあるなあ。これはいいよ、ガルバイヤン。竜人というモチーフもいい。他の画家には悪いが、今回の展示の中では群を抜いて高額がつけられると思うね」 
「どうかな、流行の抽象画ならともかく……まあ値段の話はあんたに任せますよ、キアンさん。わたしはただ、一人でも多くの人にこの絵で訴えたいだけだから」
 腕組みをして立つオーリの銀髪は伸び、無造作に束ねられている。絵の具だらけの襟の上では、顎の周りに無精ひげすら見える。けれど水色の目はそれ自体が発光しているのではないかと思えるほど強い輝きを放っていた。
「いい顔になったな、魔法使いくん。すっかり“戦う芸術家”の風貌だ」
 キアンと呼ばれた壮年の来客は、画家の横顔を見ながら愉快そうに笑った。
 
 
 ステファンは一階に降りると、思い切り背伸びをした。
 今日は、マーシャもエレインも出掛けている。お茶の淹れ方だけは教わっていたものの、なんだか緊張して疲れた。難しい顔で仕事の話をしている時のオーリは近寄りがたい。いつもエレインやステファンと冗談を言い合っている時とは別人かとさえ思ってしまうほどだ。
「大人の話には口をはさんじゃいけないし。子どもってつまんないや」
 ステファンはキッチンに盆を放り出し、クッキー入れはどこかな、と戸棚を探し始めた。
 戸棚の中は、マーシャが作り置きしたジャムの瓶やクッキー缶がきちんと並んでいる。これが近所でも結構評判らしく、今日もマーシャは近所のおかみさん達の集まりに招かれて行ったのだ。
「あー、いっけないんだ、つまみ食い」
 いつの間に帰ったのか、エレインがからかうように言いながら顔を覗かせた。
「遅いよエレイン。先生のところにお客さんが来てるんだ。お茶はなんとか出したけど、カップなんてどれを使ったらいいかわかんないし、ぼく一人で困っちゃったじゃないか」
「で、クッキーも出すの? どんなお客?」
「ええと……このごろよく来てる、なんとかいう画廊のメガネの人」
「画廊?」
 エレインは眉を上げて少し考えたが、すぐに笑い出した。
「ああ、サウラー画廊のキアンっておじさんでしょ。クッキーもジャムも要らないわよ、あの人お砂糖がダメらしいから」
「へえ、そうなんだ」
 ステファンは半ばホッとして、改めてクッキー缶を取り出した。
「じゃ、おやつにしようっと。マーシャがね、青い缶のは家族用だから食べていいって言ってたよ。エレインも食べる?」
「もちろん」
 もうすっかり人間の食べ物――といってもお菓子だけだが――に慣れたエレインは、缶の蓋を取ろうとしてピクと耳を動かした。
「――オーリが何か変」
「え?」
 ステファンが聞き返す頃には、エレインは階段を駆け上がっていた。

「そんなばかな!」
 廊下にまで響くのは、ひどく怒ったようなオーリの声だ。
 アトリエの椅子では、キアンが困惑したような顔で座っている。
「悪い話ではないと思うが。何か問題でもあるのかね?」
「おお有りだ。なんでカニス卿の名前がそこで出てくるんです!」
「オーリ、火花」
 エレインに注意されて、オーリは背中で散っていた青白い火花を消した。
「ごめんねキアンさん、普通の人から見たら、魔法使いの出す火花って怖いわよね。で、カニス卿って誰?」
「これはエレイン嬢。いや、ガルバイヤンの絵を気に入ってくれたらしくてね、今後出資者になってもいいと名乗りを上げた人のことだよ」
「カニスって、前に駅で竜人をいじめてた人だよね」
 ぼそっとつぶやいたステファンの言葉に、エレインが顔色を変えた。
 オーリはたしなめるような目を向けたが、仕方ないな、と言って駅やパーティーでのいきさつを説明した。
「なるほど、君とは個人的な因縁あり、というわけだ。出資の話は何か魂胆がありそうだな」
 キアンは面白そうにオーリの表情を伺っている。
「魂胆もなにも、嫌味に決まってるじゃないですか。早速カネの力を見せつけようというわけだ」
「当然君は断るだろうから、その次の手も考えているんだろうな」
「まさか出品の妨害をするとか?」
「いや、わたしなら君の絵を独占的に買い占めた上で今後の作品発表の場を奪うことを考えるだろうな。そうすれば絵の値段は吊りあがり、ガルバイヤンという絵描きを屈服させることもできる。一石二鳥だ」
「……恐ろしいことをさらりと言わないでくださいよ。出品したくなくなってきた」
 頭を抱えるオーリの横で、さっきから黙って聞いていたエレインが口を開いた。
「いいえ、むしろ出すべきだわ」
 緑色の目は鋭いままでオーリのほうに向き直る。
「オーリ、画家には画家の戦い方があるのよね? あたしは絵の事は解らないけど、戦いなら絶対にしちゃいけないことがあるわ。“敵前逃亡”よ」
 オーリが驚いたように目を見開いて、ごくりと唾を飲み込む音がステファンにも聞こえた。
「君らしい考えだなエレイン――いや待てよ」
 しばらく考えていたオーリは、顔を上げて絵をみつめた。
「守護者どのの言うとおりだ。戦う方法は確かにまだあったな。正攻法かどうかは知らないが」
「おいおい! まさかカニスと魔法合戦でもしようなんていうんじゃないだろうな。うちも商売だ、お得意さんを怒らせてもらっちゃ困るよ」
 キアンの心配を打ち消すように、オーリはニヤリと笑ってみせた。
「大丈夫、ちゃんと画廊には儲けてもらいますよ。カニス卿に伝えてください。お近付きのしるしに今回の作品には卿の顔を描き入れさせてもらう、とね」

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 画廊のキアンが帰った後、オーリは新聞社や雑誌社に使い魔のカラスを送った。ここしばらく郵便と電話に仕事を取られていたカラスどもは、喜んで飛び立って行った。

「信じらんないよ! どうしてあの嫌な髭男の顔なんて描くの?」
 最後の一羽が飛び立つと、ステファンは抗議した。オーリの仕事に口出しをするつもりはなかったが、今度の絵はエレインがモデルになっているのだ。その画面によりによってあの憎たらしい顔を描き入れるなんて、絵が穢されるような気がして嫌だった。
「うーん、やっぱりイメージだけじゃ似てこないもんだなあ。写真が届くのを待つか」
 オーリは呑気に鉛筆を指で回しながら、スケッチブックにカニスの髭づらを描き起こしている。
「先生ってば!」
「あ、ステフ。君のお茶、美味しかったよ。お代わりをポットで持ってきてくれるかな」
 全く意に介せず、といったオーリの態度にぷうっと頬を膨らませて、ステファンは乱暴にティーカップを下げた。

「そんな扱いをしちゃカップが傷つくわよ。それ、マーシャのお気に入りなんだから」
「だって! エレインも先生に何とか言ってよ、カニスなんかと一緒に描かれて平気なの?」
 憤慨するステファンと共に階段を下りながら、エレインはふっと微笑んだ。
「絵のことでは彼に何を言ってもムダよ。完成を待ちましょ。オーリのことだから、きっと何か企んでるに違いないわ」
 そうして先に下り、階段のステファンを見上げて言う。
「あたしのために怒ってくれてありがと、ステフ」
 どきりとして、ステファンは立ち止まった。何だろう、最近のエレインは。明るい緑色の瞳は変わらないが、時々竜人らしい猛々しさが消えて妙に雰囲気が和らぐ時がある。以前なら真っ先にオーリに抗議するのは彼女の役目だったろうに。
「なんだよ! なんだよなんだよ先生もエレインも! ぼく一人で怒ってバカみたいだ!」
 ステファンは赤い顔をしてキッチンに向かい、次はうんと苦いお茶を淹れてやろう、と思いながらケトルを火にかけた。

 しかしそんな腹立ちも、翌日からのオーリの苦闘ぶりを見ているうちに消し飛んでしまった。これまでも昼夜の区別なく絵に向かうのは大変そうだったが、オーリはむしろその大変さを楽しんでいるようにさえ見えたものだ。けれど仕上げの段階になって、彼は苦しい表情を隠さなくなってきた。
 絵の中の竜人たちは、完成が近づくにつれて命を持ったかのように生々しい存在感を示すようになった。オーリは逆にひと筆ごとに憔悴していくかに見える。まるで自分の魔力を削って絵に分け与えているようだ、とステファンは思った。
 心配してそれを口に出すと、隈のできた目元に笑みを浮かべてオーリは答えた。
「作品を世に送り出すというのは、そういうことなんだよ」
 愛用のマホガニーのパレットはすでに何色の絵の具がこびりついているかわからない。さらにその上で新しい絵の具がぐしゃぐしゃにせめぎ合い、オーリの格闘ぶりを示している。オーリはそれを抱え、これでもか、これでもかと筆を運ぶ。
 エレインはただ黙って見守っていた。
 
 そしてある寒い日。夜通し描き続けていたオーリは脚立に上り、最上部の竜人を描き終えたところで筆を止めた。絵の具の染み付いた手を照明に向けると、それに応じるように灯りが消える。いつの間にか夜は明け、北側の天窓からは、柔らかい朝陽が光の帯を投げかけていた。オーリは自然光の中でしばらく絵を見つめ、よし、とひと言短く言ってうなずいた。
 天井の梁の上で見ていたエレインはうなずき返すと、腕を伸ばして絵の具に汚れた顔をしっかりと抱き寄せた。
 眠くて半ば朦朧としていたステファンの目に、不思議な光景が映る。下絵に塗り込められていたはずの翼を持つ天使が絵を抜け出し、オーリに賞賛のキスを与えている――どこまでが現実でどこまでが夢なのかはっきりしないまま、ただあの絵が完成したのだということだけ、分かった。ステファンは安堵の息をつき、アトリエの壁にもたれたまま眠りに落ちた。

 気が付けば、十月も半ばになっていた。

 
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  十一月最初の土曜日。

 首都の駅から程近いヴィエークホールには、多くの人が訪れていた。この季節には珍しく、空は穏やかに晴れている。灰白色の古めかしい建物は、もとは貴族の所有する小さな城だったのだが、戦後台頭してきたヴィエークという財団が買取り、二年に一度、若い芸術家のために大規模な美術展を開いていた。
 
 広いホールの中は幾つかのブースに仕切られ、いつもは個別に細々と展覧会など開いている画廊主がここぞとばかりに店自慢の作品を並べる。あるいは個人で出展する者も居る。有名無名の別もなく、若手の芸術家が自分の野心作を世に問う場に生まれ変わった古城は、静かな熱に満ちていた。
 
 平和だな、とつぶやく画家が一人、円柱にもたれて人びとを観察していた。描きたいものを描けず逃げ回った少年時代が嘘のようだ。世の中がどう変わろうと、美を求めようとする人の心が消えないものならば、平和なほうが良いに決まっている。買い付け目的で訪れた美術商に混じって、ただ新しい感覚の作品を楽しむため、我が家の壁に飾る小さな絵を求めるため、行き交う人びとの後ろに見えるのは、つつましい幸福の色だろうか。そんな幸福の陰で忘れ去られようとする者たちが居るのも確かだが……

「わ、先生。ずっとここに居たの?」
 ぶつかりそうになった少年が、驚いて鳶色の目で見上げた。
「ずっと居たよ。気配を消してると風景の一部になってしまうから分からなかったんだろう」
「うん。あのね、先生の絵、すごく評判いいみたいだよ。すぐに良い買い手がつくだろうって!」
 無邪気な少年の言葉に微笑み、画家は冷静に言った。
「あんまり早く売れるのは困るな。主賓が来てからでなきゃ面白くない。じっくり交渉するように言っておいてくれ」
「わかりました。でも、ちょっと他のとこも見てきていい?」
 答えを待たずホールに向かう小さな背中に、迷子になるなよ、と言いかけて画家は苦笑し、自分に言い聞かせた。
「過保護だぞ、オーリローリ。ステファンだってもう十一になるんだから」
 
 ホールの一隅から場違いなほど声高にしゃべる人物が現れた。画家の待ち人が来たらしい。取材に来た新聞記者や雑誌記者を見て何を勘違いしたか、下品な笑い声を立てている。
「来い、カニス。舞台はこっちだ」
 誰にも聞こえぬようにつぶやき、銀髪の画家は円柱の向こうに消えた。

 オーリローリ・ガルバイヤンの絵の前には人だかりができていた。
 暗い緑色をベースに、燃えるような赤い髪が踊る。肥沃な大地を蹂躙する人間たち、誇り高く剣をかざして戦い果てる竜人、そして混沌の地を離れ、天高く舞う美しい娘――竜人フィスス族の過去、現在、未来がひとつの画面に表現されている。
 最上部に描かれた竜人の娘は、まぎれもないエレインの顔だ。背中には、微かな光が翼の形に浮き出ている。全体的に重い色調の画面のところどころに絵の具を掻き取ったような跡があり、下絵に描かれた明るい色が顔を出して画面に光を与えている。オーリが一度全体を塗りつぶしてしまったのはこういう計算があったのか、とステファンはため息をついた。
 カニス卿の顔は、確かに描かれていた。画面の最下部、どす黒い混沌の地に鎖で繋がれてぶざまに吠え立てる――犬(canis)の姿で。

「こっ、こっ、これは何だあ!」
 カニス卿は大きな腹を揺らしてわめいた。
「バカにしおって若造が! こんなものは芸術の名に値せん! おいサウラー画廊、事と次第によっては……」
 だがそんなわめき声も、次々と焚かれるフラッシュやカメラのシャッター音にかき消された。成り上がり者のカニスを日ごろから良く思わない大衆紙の記者など、溜飲が下がったような顔で絵の中の“犬”とカニスの髭づらを並べて撮っている。
「オオ、素晴ラシイ、シュールデス!」
 カニスを押しのけて外国人らしい女性が声をあげた。
「美シイ! 竜人ガ生キテイマス。コノ国デコンナ絵ニ出会エルトハ」
「全くだ、奇をてらっただけの抽象画が多い中で、久々に魂のこもった絵を見ましたぞ」
 画商らしい別の男も、顔を上気させてさかんに画廊主のキアンに話しかけている。
 人びとは絵を賛嘆する一方で、壊れた機械仕掛けの人形のように口をパクパクさせているカニスの顔を見ては失笑をこらえている。
「お気に召して頂けたかな、カニス卿」
 人垣の頭越しに、銀髪の青年がのどかに声を掛けた。
 一瞬怪訝そうに青年を見上げた人びとの中から、記者たちがまず気付いてどよめいた。
「ガルバイヤン! あなたはこの絵の作者、ガルバイヤンですね?」
「カニス卿の出資を受けるというのは本当ですか?」
「卿、犬の姿に表現されたご感想は? 何かひと言!」
 凹面型のフラッシュが一斉に焚かれる。赤ら顔をさらに赤くしていたカニスは、記者たちに取り囲まれてオーリを睨んだ。
「貴様……我輩に恥をかかせたつもりだろうが、後悔することになるぞ」
「はて、恥とは?」
 オーリはすっとぼけた顔で応じた。
「わたしは筆に任せて表現したまでですよ。絵の解釈は人それぞれだ、出資の話もお心任せということで」
「気ニ入ラナイナラ、アナタハ退キナサーイ、犬男爵サン。コノ絵ハ私ガ買イマース」
 白い手を挙げた外国人女性に、周囲から拍手が起こる。画商たちは焦った顔を見せた。普通この手の美術展では、絵を買い取るなら画廊を通じて個人的に、静かに交渉を進めるのが常だ。
「いや、ちょ、ちょっと待ってください。私が先に交渉を」
「いいえ、当店こそが」
 
 にわかに賑やかになるブースの中央で、突然カニスが笑い始めた。
「くくく、なるほどねえ。まんまと策略に乗せられましたな」
 ざわめいていた人びとが一斉に振り返った。
「諸君、気をつけたまえ。この若造は魔法使いだ。自分の作品を売り込むために人の心を操るくらい、わけはない。しかも家に赤毛竜人の娘を囲ったりして、不道徳極まりない奴だ」
 オーリの水色の目が怒気を含んで光った。“竜人の娘”という言葉に反応した記者が、今度はオーリを取り囲む。
「あの絵に描かれた竜人のことですね? モデルが実在するんですか?」
「どの竜人です? ひょっとして、あの一番上に描かれた美人がそうですか?」
 なんて人たちだ、とステファンは記者たちを睨んだ。ついさっきまで“犬のカニス”を笑っていたくせに、面白そうな話題なら何にでもとびつくのか。モデルがどうとか、絵の価値とは関係ないじゃないか。幸い今日はエレインを連れて来てはいないが、何でオーリはこんな連中を呼び寄せたのだろう? わざわざ使い魔まで飛ばして。
 ステファンの不安をよそに、オーリは冷静な顔で答えた。
「確かに、あの竜人のモデルとなったのはわたしの守護者ですが。カニス卿には逆に“不道徳はどちらか”と申しあげたい。一たび魔法使いが竜人と契約したなら、ずっと共に居るのはむしろ当然だと思いますよ。あなたのように、年端も行かない少年の竜人をカネで売り払うなど、わたしには信じられないね」
 落ち着き払ったオーリの声に、人びとはおお、とうなるような声をあげた。
「我々は遥かな昔から、竜人の偉大な力の恩恵を受けて生きてきた。思い出して欲しい、皆さん。この国が戦後の痛手から立ち直る時、人間の手では何年かかるか知れなかった港や街の修復を、一体誰が担ってくれました? その代償として我々は、彼らに何を返してきたのです?」
 ステファンははらはらしながら成り行きを見守っていたが、ふと気が付いて、大人達の足元をかいくぐり、カニスの背後に近づいた。オーリは冷静に話を続けている。
「―――わたしがこの絵を描いたのも、我々の罪を忘れないためだ。かつて隣人として大勢いたはずの、竜人の尊厳を取り戻したいからだ!」
「ところでその竜人の娘ってのは、今日は連れて来なかったんですか? ぜひ取材させて頂きたいんですがねえ」
 オーリの言葉など耳に入らないように軽薄な調子でカメラを掲げる記者を、水色の目が睨む。ピシ、と音を立てて、フラッシュ球が割れた。
「本当に竜人の話を聞きたいなら、礼を尽くして管理区にでも取材したらどうです? どれほど人間が理不尽な仕打ちをしてきたか、嫌になるほど分かるはずだが」
 気迫に押されたように、記者はすごすごと人垣に隠れてしまった。
 
「ごたくはそのくらいにしておくんだな、ガルバイヤン」
 傲慢な目を向けて一歩踏み出そうとしたカニスが、う、と口髭を歪めた。
「ずるいよ、おじさん。魔法使いはこういう場所で杖を使っちゃいけないんだ。そう習わなかったの?」
 こっそり杖を向けようとしたカニスの手を、ステファンがしっかりと押さえている。
 周りの人は飛びのき、非難の声を浴びせた。
「魔法使いの公共の場における禁止事項違反。記者さん、今のはちゃんと撮ったんだろうな」
 オーリは口の端を上げて皮肉っぽく言ったが、決して目は笑っていなかった。
「カニス卿、幸運でしたね。違反が未遂で済んだことをこの子に感謝なさい」
 悠然と言い捨てると、ステファンを連れてその場から離れようとした。

「は、いい気になりおって! 貴様はもうお終いだぞ、ガルバイヤン。我輩はヴィエークの者にも顔が効くんだ、分をわきまえない生意気な若造など、画壇に居られなくしてやる!」
 カニスは真っ赤な顔で幼児のようにあからさまな憎悪の言葉を投げつけている。オーリは画廊主に肩をすくめてみせた。
「だってさ、キアンさん。どうする?」
「さてねえ。“顔が効く”ヴィエークに言ってつまみ出してもらおうか。あんなのがきゃんきゃん吠えてたんじゃ、美術展の品位に係わるからね」
 うんざりしたようなキアンは手を挙げ、各ブースを見回っている係員に合図を送った。

「カニス? そんな名ではなかったはずだ。確かあの者は……」
 人垣の後ろから騒ぎをじっと見つめる人物がいた。誰にも気付かれることなく、彼は静かに会場を後にした。
 
 
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 会場の外に出ると、オーリもステファンも、さっきのやりとりを思い出してどちらともなく笑い出した。
「よくやったステファン・ペリエリ! あの時のカニスの顔といったら! 風刺画にして新聞に載せてやりたいくらいだよ」
 空を仰ぐオーリは心底愉快そうに銀髪を揺らした。
「ぼくもスッとした。先生こそすごいや、あんな大勢の人の前でカニスをとっちめるなんてさ。エレインにも聞かせてあげたかったな」
「ばかいえ、あれでも足が震えてたんだぞ。緊張が過ぎて人前で火花がパチパチ飛び出したらどうしようかと思ってたさ。カニスが先に杖を取り出してくれなきゃ、こっちが“違反”をするところだったよ」
 二人で背中を叩き合ってひとしきり笑い合った後、ふとステファンは心配になった。
「先生、さっき最後にカニスが言ってたことだけど。まさか仕返しに、先生の絵を売れなくしたり……とか」
「あり得るね」
 オーリは涼しい顔でうなずいた。
「あれだけ恥をかかされて大人しく引き下がるようなやつじゃないだろう。まあ今回の作品は売れるだろうから画廊側に損をさせることはないとして、問題はこれからだな。カニスのわめいてた事も、あながち不可能なことじゃない。絵が売れなくなったらどうするかなあ。トーニャにでも泣きついて魔女出版に仕事を回してもらおうか?」
「そんな……」
 他人事のように笑っているオーリを、ステファンは呆れて見上げた。
「理想はどうあれ、大人の世界は汚い。覚悟はしてるよ。どんな分野でも、大抵の人はその汚い波にもまれながら、どこまで妥協してどこまで自分の誇りを守るか、そのせめぎ合いで毎日格闘してるんだ。このわたしだって今は偉そうに言ってるけどね、かつては“汚い大人”に負けて、自分の意に染まない絵を描いてた時期もあったんだよ」
「描きたくない絵を描いてたってこと? 絵描きさんって、好きなものを描いてるんじゃないんですか?」
 目を丸くするステファンには答えず、苦い笑みだけ返して、オーリは電車通りにではなくヴィエーク・ホールを巡る小径へと足を運んだ。小径は庭園を縫って黄金色に色づく木立へと続いている。

「わたしは画家としては割と早くに認めてもらってね。まだソロフ師匠の元に居た頃から、あちこちで公募展やコンペ(競作展)に挑んでは、賞を獲得することに躍起になっていた。そうやって絵の世界で名を上げることで、何処にいるか知れない父に気付いてもらえるかも、なんて考えていたんだ。本名のオーレグで描いていたのもそのためさ」
 穏やかな午後の風が葉を揺らすと、木漏れ日も揺れる。オーリはそれを仰ぎながら話続ける。
「ところがそれに目を付けたのが大叔父だ。有力な貴族議員や将軍の肖像画を描かせて、我が一族を守るのに利用しようとしたんだね。たかだか肖像画くらい、大した賄賂(わいろ)にもならないと思うんだが、大叔父も必死だったんだろうな、他にもいろいろと裏で使われた魔女とか居たから……とにかくそれからは自分の描きたいものなんて一切描けなくなった。毎日描きたくもない脂ぎった顔だの、ばかばかしい勲章だのばかり見ながら過ごさなきゃいけない。思い出しても反吐が出そうだ」
 湿った朽ち葉を踏みしめながら、ステファンは十代の頃のオーリに同情した。なまじ人の心の内側が見えてしまう彼は、毎日どんな気持ちで筆を取っていたのだろう。
「それでも、これも一つのチャンスだ、と考えて手を抜かずに描いたんだ。もしかしたら肖像画家として名を知られるようになるかも知れない、それに同年代の中には十代で戦場に送られた魔法使いも居る、それに比べたら絵を描いて兵役にも付かずに済むならこんないいことはないじゃないか、ってね。戦争が酷くなるにつれて画材も手に入れにくくなってた頃だ、どんなに嫌な仕事だろうと奴らにしがみついてさえいれば、画材を手に入れられるのも大きな魅力だった。ところがある日、目の前に居るのがどうにも許しがたい人物だと知って、描けなくなってしまった」
「誰、だったんですか?」
「ウルフガング・ミヒャエル・グランネル将軍。―――嫌だな、まだフルネームで覚えてたよ―――魔女や魔法使いの力を戦争に利用した張本人だ。その昔母やアガーシャが死んだのだって、奴の考えに反対して追い詰められたせいだ」
 高い木の梢で、甲高くヒヨドリが鳴いた。ステファンは胸が痛む思いでオーリを見上げたが、彼は感情を表すこともなく淡々としている。
「もちろん先生は断ったよね? そんな仕事」
「断るだって? そんな選択肢は無かったよ。わたしにできたことと言えば、大叔父の家から逃げ出すことくらいさ。エレインの言葉を借りるなら敵前逃亡、だな」
 オーリは冗談めかして言ったが、笑える話ではない。ステファンは唇を噛んで話に聞き入った。
「しばらくはあちこち逃げ回ったけど、結果は見えていた。大叔父の探索魔法で見つかって連れ戻されたんだ。さんざん叱られ、一族こぞって前線に送られたいのかと脅されてね。結局描かざるを得なくなった。皮肉なことに、その時に描いた絵が評価されて、わたしは十八にして望みどおり肖像画家として認められたんだが……」
 オーリは自分の右手をじっと見た。
「その時思ったんだ。この手は自分の魂を裏切った、もうどんなに有名になろうと父に認められる絵なんて描けないだろう、ってね。それからまもなく戦争が終結して肖像描きからは解放されたんだが、真っ先にした事は何だと思う?」
 ステファンは黙って首を振るしかなかった。
「将軍の絵を展示してある美術館に忍び込んだんだよ。戦争が終わって古い価値観は終わりを告げた、なら絵だって同じだ。あの恥知らずな肖像画を破いて、大叔父の仕組んだ茶番をお終いにしてやろうと思ったんだ。その結果どうなろうと知ったこっちゃ無い、魔力を封じる罰を受けても、二度と絵が描けなくなっても構わないとさえ思ってた。実際、そうなるところだったよ、ソロフ師匠に止められなかったらね」
 二人の足音に驚いてか、茶色いリスが走り過ぎる。オーリはそれを目で追いながら微笑んだ。
「師匠には何もかも見透かされてた。わたしが苦しんだことも、思いつめて美術館に忍び込んだことも。その上で諭してくれた。“時の試練”という、例の言葉でさ。“一時の感情に流されて将来に傷を残すより、その悔しさも恥すらも力に変えて、どんな人間の心も動かすくらいの絵を描いてみろ”とね。その時自分に誓ったんだ。助けてくれたソロフ師匠の為にも描き続けよう、けどもう二度と魂を裏切るような絵は描くまいって」
「もしかして、先生が名前を変えたのってその時から?」
「そう。オーリローリ、ふざけた響きだろう。どこの国の言葉だったか、“笑う光彩”という意味だそうだ。この名前によってわたしはまた一からやり直せたんだ。ついでに“ガルバイヤン”の姓も消したかったんだが、さすがにそれは死んだ母に悪くってね。中途半端な改名になっちまった。こんなので一からやり直した、なんて言うのはずるいかな」
 そんなことはない、と言おうとしたステファンの前で木立は途切れ、車の行き交う大通りが見えてきた。
「おしゃべりしてたら反対側に出てしまったな。近くだから、ついでにユニオン本部に寄って杖を受け取ってこようか」
「え、杖って何の」
「君の杖に決まってるだろう!」
 オーリに明るい瞳を向けられて、やっとステファンは思い出した。八月に申請した、魔法使いとしての最初の杖のことだ。
 
 通りの向かい側に、息をひそめるように建つ中世様式の細長い尖塔が見える。尖塔を見上げながら、オーリは指を弾いて黒いローブを取り出した。
 
 
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 尖塔のある細長い建物の中は昼間だというのに薄暗かった。埃と煙と古い薬油の混じったようなにおいが漂っている。ゴトゴトと足音のする木の床を進んで正面の事務机に向かうと、長い灰色の髪をした魔女が顔を上げた。
「杖の申請者だね」
 オーリが口を開くよりも早く、魔女は丸い眼鏡をずりあげ、面倒くさそうに言って書類を広げる。
「ここにサインを。ああ、あんたもだよおチビさん」
 おチビと言われて少しムッとしながら、ステファンは魔女の枯れ木色の顔をなるべく見ないようにして几帳面な文字を書いた。
「なんだね、そんなにたっぷりインクをつけちゃ乾きにくくってしょうがない。お若いの、あんたが師匠だね。杖は後ろの棚にあるから、自分でお探し」
 魔女は書類にインクの吸い取り紙をぐりっと押し付けて、何やら記号を書いた紙片をオーリに渡した。
「随分と手続きが簡素になったもんですね」
 皮肉を込めたオーリの言葉など意に介さず、魔女は眼鏡の奥の黄色い眼を細めてため息をついた。
「今どきはこんなもんさね。ああ、昔は賑やかだったねえ。大勢の子が順番待ちで並んで、ちゃんと戴杖式なんてのもやったもんさ。あんたら若い者はそんなの知らないだろうね」
「いえ、わたしはギリギリ“戴杖式世代”ですよ――あった、これだ」
 オーリは棚の中から杖の箱を選び出すと、蓋を開けて中を確認した。
「ちょっと古くないですか?」
「文句をお言いでないよ。このごろは新しく魔法使いになろうなんて子は滅多に居やしないんだから、杖職人もあまり作らないんだよ。なあに、古くたって力は衰えてないさ」
「杖職人がそんなんじゃ困るな……ステフ、こっちへ」
 ステファンは促されるまま、部屋の中央で杖を捧げ持つオーリと向かい合った。

 薄暗い部屋には高い位置にある窓から光が射して、床に描かれた円形の文様を照らしている。黒いローブを着た銀髪の魔法使いは光の中で厳かな声で告げた。
「ステファン・ペリエリ、今よりこの杖の主となって己が魔法を極めんことを……以下省略!」
 ひやりとした感触の白い杖をステファンの手に載せると、オーリはいつもの顔に戻って片目をつぶった。

――これが、初めての杖。
 確かに、魔女の言う通り目に見えない力を感じるが、オーリのおかげで緊張がほぐれたせいか、恐いとは思わない。ステファンは手の中で呼吸を始めたような白い杖をしっかりと握り締めた。
 パン、パン、パン、と乾いた拍手音が部屋に響く。
「戴杖式の真似ごとってわけかい。さしずめあたしは立会人ってことかね。おめでとう、おチビさ……いや、ステファン・ペリエリ。今日からはあんたもお仲間ってわけだ」
「あ、ありがとうございます」
 ステファンは頬を紅潮させながら、改めて魔女の顔を正面から見た。枯れ木色の顔は不気味ではあるが、眼鏡の奥の黄色い眼は意外と人が良さそうに見えた。
「ただし、それはあくまでも“仮の杖”なんだからね。しっかり精進して、なるべく早く本物の杖を持つことだ、自分の稼ぎでね。それと、ローブだ。だいたいあんたもね、オーリなんとかさん。杖を受け取りに来るつもりならこの子のローブも用意してやるもんだ、気の利かない師匠だよまったく」
 魔女の機関銃のような台詞が終わらないうちに、オーリは肩をすくめてステファンを連れ、部屋を後にした。
 明るい表通りに出て行く二人の年若い魔法使いを見送りながら、魔女はため息をついた。
「もう、時代は魔法を必要としてないんだ。あの子たちは、“最後の世代”になるかもしれないねえ……」

*  *  *

 四日後の聖花火祭の夜。
 魔法使いも、竜人も、保管庫の中で眠っていたファントムも、この日ばかりは身分を偽らず、羽目を外して大騒ぎをする。川を挟んで対岸の村と花火を飛ばし合い、来るべき冬の前に一年に一度の馬鹿騒ぎが許される祭りなのだ。
 ステファンは自分の杖を使って小さな花火を飛ばした。初めての杖を使って最初に覚えたのがこんな過激な遊びだなんて、とエレインは呆れ顔だったが、オーリはステファン以上にはしゃいで、川の対岸に向けてガンガン花火を飛ばしまくった。当然、こちらにも花火は飛んでくる。川があるお陰で火事にこそならないが、時折火の粉が顔に散ってくる。それでも毎年たいした怪我人も出ないというのだから驚きだ。
 祭りが最高に盛り上がってきた頃、凍りそうな夜空に大きな花火が綺麗な孤を描いて飛び始めた。ユーリアンたち火を操る魔法使いが飛ばしているのだ。
 歓声をあげながら、ステファンの目に父オスカーの顔がふと浮かぶ。
 二年前、父はこんな花火を見ながら、オーリの元へ訪ねて来たのだろうか。
 
 ねえお父さん、と心で呼びかけてみる。ぼくは自分の杖を手にしたよ、早く見せてあげたい、と。

 
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