忍者ブログ
1950年代の欧州風架空世界を舞台にしたファンタジー小説です。 ちょいレトロ風味の魔法譚。
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


 光の中の人物は次第にはっきりとした像を結びだした。少し癖のある黒髪、彫りの深い顔立ち。ステファンに似た鳶色の目が、驚いたように見開いた。
「ステファン……ステファンか?」
「お父さんっ!」
 駆け寄ろうとしたステファンをオーリが捕らえた。
「だめだ、ステフ。オスカーもそこで止まれ!」
「どうして!」
 ステファンは必死に腕を振りほどこうともがいた。
「だってお父さんだよ、あんなに探したんじゃないか。そこに居るんだ、離して先生! お父さんのところに行くんだ!」
「そこに見えるのはオスカーの“意識”だ、実体じゃない。それに同調魔法では対象に触れちゃいけない。でないと、術者の意識がこちら側に戻れなくなる。君だってファントムに助けられただろう!」
「落ち着きなさい、ステファン」
 オスカーの声に、ようやく我に帰ったステファンは暴れるのを止めた。
「……お父さん、本当にそこに居ないの? だって話ができるよ? 前にぼくが同調魔法使った時は、ぼくの声はお父さんに聞こえてなかったのに」
「それは、君の同調した対象がオスカーの“記憶”だったからだ。記憶は過去。けど今見えているオスカーはわたし達と同じ時間の上に居る。
そうだな? オスカー」
「ああ、そのようだ」
「無事なのか? そこはどこだ?」
 まだステファンをしっかり押さえたまま、オーリの声は震えている。
「今は答えられない。君たちの居る世界ではない、とだけ言っておこうか」
 オスカーの鳶色の目が悲しげに微笑んだ。
「杖を持つ魔法使いと違って、僕のような者が魔道具を使うとなると、いろいろ制約があってね。口外できないことも多いんだ――ソロフ師の意識を間近に感じる――そうか、これが同調魔法なのか。息子がそこに居るということは、僕があの手紙に託した願いを君が聞き入れてくれたということだね。感謝する、オーリ」
「なにが感謝だ、あんな手紙じゃ何もわからない。皆をどれだけ心配させたと思う!」
 オーリは銀髪を振って顔を伏せた。
「こんなことなら、忘却の辞書なんて貸すんじゃなかった。オスカー、君はこうなることを覚悟の上で辞書を使ったのか? まさか帰らないつもりじゃないだろうな」
 オーリの問いには答えず、鳶色の目はただ懐かしそうに友人や息子を見ている。
 ステファンの腕を掴むオーリの手に、痛いほどの力が込められた。すぐ目の前に姿が見えるのに、手を取ることすら出来ない悔しさをこらえているのは自分だけではない、とステファンは気付いた。
「離してください、先生」
 ステファンは涙を浮かべてはいたが、落ち着いた声で言った。
「大丈夫、お父さんには触れないよ。ただもうちょっとだけ、近くで顔を見させてください」
「ステファ……」
 オスカーの手がピクと動いた。久しぶりに会えた息子を抱きしめたいのに違いないが、拳を握り締め、かろうじて押さえている。父と息子は手を差し伸べ合うこともなく、お互いの顔を見つめて向かい合った。
「大きくなった。男の子らしい顔になってきたな、ステファン」
「ぼくは相変わらずチビだよ。お父さんは、ちっとも変わってない。最後に見た時のまんまだね」
 ステファンは無理をして笑顔を作った。いつか、オーリがそうしていたように。
「ああ、そうだな。ここでは時が流れていないから。空腹も、疲れも感じない奇妙なところだ。敢えて言うなら、時空の間隙、とでもいうのかな」
「オスカー、なんでそんな所に行っちまったんだ? なんとか出られないのか?」
 ずっと黙っていたユーリアンが、たまりかねたように声を掛けた。
「君は……ああ、ユーリアンだ。それと、トーニャ? 驚いた、二人ともあんまり綺麗なんで人形かと」
「冗談言ってる場合かよ、自分の状況を心配しろ。相変わらずだな、この男は」
 涙声になりそうなユーリアンは、赤くなった目を逸らした。
「お父さん、ひとつだけ教えて。ぼくが魔力なんて持って生まれたたから、お母さんとケンカになっちゃったの? もしそうなら、ぼく家では二度とあんな力使わない。いい子でいるように努力するよ。だから、帰ってきて。お母さんのために帰ってきてあげて!」
「ステファン、それは違う」
 オスカーは首を振った。
「お前は生まれてきてくれただけで、かけがえの無い“いい子”なんだよ。悪いのは、お父さんなんだ。いつも夢ばかりを追いかけて、遠い過去の世界ばかりを見て、現実に目の前にいる人を大切にしてこなかった。忘却の辞書を使ったのも、お母さんの心を病ませてまったことへの、せめてもの罪滅ぼしなんだ」
「お母さんは、病んでなんかいないよ。ごめん、せっかくお父さんが掛けた魔法だけど、ぼくとお母さんで解いちゃった。でもお母さんは泣いてなんかいない。自分から伯母さんと話し合いに行くくらい、元気になったんだよ!」
「ミレイユが? そうか……良かった」
 オスカーは目を閉じ、安心したように微笑んだ。

「もう、あまり時間は無いぞ」
 ソロフの顔が苦しそうに歪んできた。
「待ってください。師匠。オスカー、あの十二本の罫線の意味するものは何だ? もう辞書の魔法は解けているんだ、君が戻るためにこっちから働きかけることはできないか?」
「残念ながら、その問いにも答えるわけにはいかないな。だが僕は必ず帰る。それまで息子を頼むよ――ああ、視界が薄くなってきた。ステファン、いいかい、いつも顔を上げるんだよ。自分の力に誇りを持つんだ。ミレイユに伝えてくれ、ずっと愛していると。けどこれからは自分の幸せのために生きて欲しいと。オーリ、大切なものからは決して手を離すな。そしてユーリアン、トーニャ。子供は、希望そのものだ。きっと――」
 そこまでしか声は聞こえず、オスカーの姿はかき消えた。
「待って、待って、お父さんっ!」
 夢中でオーリの腕を振りほどいたステファンは、オスカーの残像を捕まえようとするかのように、むなしく空間に手を伸ばした。

「フフ……フ、ちと無理が過ぎたな」
 ソロフの身体がぐらりと傾く。
「師匠!」
「ソロフ先生!」
 同時に駆け寄ったオーリとユーリアンに両側から支えられ、老いた魔法使いは深々と椅子に身体を沈めた。
「オスカーめ、自分の言いたいことだけいいおって。私やイーゴリへの礼は無いままか……」
 ソロフは荒い息を吐きながら、それでも満足そうな目をしていた。
「先生、ご無理をさせてしまいました。オスカーに代わって感謝します」
 オーリは目をしばたたかせながら、老師匠の両手をしっかりと握った。
 
「ステファン?」
 トーニャが背中に手を触れると、我に帰ったようにステファンは目をぬぐった。
「お父さん、必ず帰るって言ってたよね」
「ええ、そうね」
「ぼくのこと、いい子だって言ってくれたよね?」
 振り向いたステファンは、もう泣き顔などではなかった。
「もちろんよ。皆、そう思ってる」 
 ステファンはトーニャに笑顔を向けると、部屋を横切り、ソロフの白髪頭に飛びついた。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう! お父さんに会わせてくれて。ぼく、何て言ったらいいか――とにかくありがとうございます! 先生の先生、やっぱりすごいや。大叔父様も、ありがとう!」
「ふははははっ」
 ソロフはステファンの頭をなでながら、心底嬉しそうに笑った。
「見たか弟子たちよ、これが本物の“童心”だ。このくらい真っ直ぐに自分を表してみよ。どんなにか生き易くなるだろうに。 なあイーゴリ、そう思わんか?」
 椅子の上の茶色い物体は、答えない。どうやら眠りについてしまったようだ。

にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ 
読んでいただいてありがとうございます。応援していただけると励みになります。

 

PR

皆さん、ゴールデンウィークはいかがでしたか。
松果は実家でのほほんと過ごしてきました。

で、お休み明けの第一弾。

先日お知らせした「ムーンチャイルド」企画の参加作品を投稿しました。
  ↓  ↓  ↓
 「カゴを持っておつかいに」

小学生姉妹の短いお話です。すぐ読めますので良かったらのぞいてみてね。


で、ブログの続きはどうなってるかって?
はいー、忘れちゃいませんよ。
今週中に第九章を終わらせられるかなあ。
今最後の推敲してるとこなので、もうちょっとお待ちを。


 眠りに付いたイーゴリ大叔父を見やって、ユーリアンが老師匠を気遣った。
「師匠も少しお休みになったほうが……」
「そうだな。では今日最後の講義だ。座りなさい、弟子たちよ」
 ソロフの言葉に全員が居ずまいを正してソファに座った。
「オーレグ、お前が指摘したようにオスカーは今、過去でも未来でもなく、我々と同じ時間の上に居る。だがその一方でこうも言っていた。“ここには時間が流れていない”とな。さて、これがどういうことか判る者?」
 一同が戸惑って顔を見合わせる中、オーリが口を開いた。
「以前オスカーと議論したことがあります。時間とは静かに流れる川の水のようなものだ。けれどそこに舟を浮かべ、さらにその中に水を張ったら? 中の水は“川と共に流れている”が、“舟の中で同じ状態を留めている”とも言える。つまり――そういうことですか?」
「おおむねその考え方で正しい。オスカーの息子、言っていることが判るか?」
「わかんない」
 ステファンは正直に答えた。
「ではもっとはっきり言おう。オスカーはおそらく、時間を自由に行き来する能力があったのだろう。“水を張った舟”に守られたまま、川を遡ったり下ったりするようなものだ」
「まさか!」
 ステファンが叫ぶ隣で、オーリが眉を寄せた。
「いや。うすうすわたしもそう思ってはいた。彼は時々過去の事象を実際に見てきたように克明に話していたからな。それに、思い出してごらんステフ。オスカーが実際に魔法を使ったのは十一月六日、つまり彼が姿を消した日だ。けれど手紙をガーゴイルが運んだのは十二月。このタイムラグをどう説明すればいいか、ずっと考えていたんだ」
「おいおい! 大変なことをさらっと言うなよ」
 ユーリアンが頭を抱えた。
「過去を観る能力を持つ者は確かに居るよ。けどそれは同調魔法に近い力だ。観ることはできても、過去の事象に干渉するのはタブーだろう。オスカーはそのタブーを犯して十二月から十一月に戻って魔法を使ったとでも言うのか?」
「おそらくはね。もしそうだとしたら、彼がああなったのは辞書のせいばかりじゃないな……」
 沈痛な空気が流れる中、パン、パン、と手を叩く音が響いた。 
「ふふ、時の試練とは面白いものよ」
 ソロフは疲れた顔をしながらも誇らしげに弟子達を見回している。
「手のかかるヒヨッコも一人前にものを考えられるようになったな。大丈夫、オスカーは戻ってくるとも。それを信じて待つのもまた“試練”だ。わかるかな」
 皺だらけの大きな手がステファンの肩に置かれた。
「でも、いつまで?」
「はっきりとは断言できぬが、そう遠い未来ではなかろう。さっき彼の意識と繋がった時、戻ろうとする明確な意思を感じたからな。これは一種の時限魔法かも知れぬ。オスカーのことだ、無鉄砲な若造のような魔法は使うまい。何らかの条件を付けてこちら側に戻る方法は確保しているはずだ」
「そう、信じたいです」
 オーリが沈痛な顔でうなずいた。

「ときに、オーレグよ。お前の父シャーウンとオスカーは、似たところがあるな。お前はオスカーに自分の父親を重ねて見ていたのではあるまいな?」
「それはないです、ソロフ先生」
 オーリは苦笑した。
「確かに共通点はあります、魅いられたように遺跡の研究に没頭して、家庭を顧みないところとかね。ですがわたしの父はただの壁画絵師です。東洋人ということもあって祖父や大叔父には随分嫌われていた。オスカーのように魔力でもあれば受け入れてもらえたのでしょうが」
「え、先生のお父さんって魔法使いじゃなかったの?」
 驚くステファンに、オーリは悲しげな目を向けた。
「ああ。絵が描けるという以外これといって特別な力の無い、ただの男だよ。わたしが五歳の時にこの国を追われたというから、あまり覚えてないんだけどね」
「それについては少し訂正しておこう」
 ソロフが手を挙げた。
「お前は自分の家族が離散することになった原因を、イーゴリのせいと思っているようだがな。あの絵師の才能を惜しんだゆえに国外に脱出させたのは、お前の母オリガだ。お前も知っておろう、二十年前に魔法使いがどういう扱いを受けていたか。魔力を持たぬ彼にまで我々と同じ荷を負わせるわけにはいかぬと、オリガは考えたのだ」
「母が? そうなのですか?」
「私は覚えているわよ、オーリ」
 トーニャが口を開いた。
「叔母様は言っていたわ。“シャーウンは壁に心を刻み、私は息子に心を遺す。いつか時が満ちる日、オーレグは全てをわかってくれるはず”とね」
「時が満ちる日……」 
 オーリは唇を噛んで自分の手を見つめた。ソロフがうなずきながら、歌うように言う。
「時の試練とはまことに、不可思議で面白いものよ。あたかも巨大樹の成長を見守るがごとし。時代は変わった。魔女も、魔法使いも、これからは魔力だけに頼るのではなく、どう生きてゆくかが問われることとなろう。さあ、弟子たちよ、私の講義は終わりだ。あとは各々が自分の進むべき方向を見誤らないことだ」
 語り終えると、満足そうにソロフは目を閉じた。


にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ 
読んでいただいてありがとうございます。応援していただけると励みになります。

 


 部屋を辞しても、しばらくの間誰も口をきかなかった。皆、それぞれに思うところがあったのだろう。螺旋階段の古いカーペットを踏みながら、ステファンは父オスカーの言葉を思い出していた。
 必ず帰る、と父は言っていた。けれど、いつ? 
 そう遠くではないとソロフは言ってくれたが、その日まで父の顔を忘れそうで怖くなる。
「そういえばぼく、お父さんの写真を持ってなかったっけ」
 思い出したようにつぶやくステファンにユーリアンが声を掛けた。
「オスカーは自分の写真を撮ることには興味なかったみたいだしなあ。あんなに遺跡の写真を撮りまくってたのに」
「案外そういうものだよ。わたしだって自画像は練習用にしか描いたことはない――いや、家族の絵もか」
 オーリは何か考え込むように口をつぐんだ。
「そういえば僕も他人の家ばかり設計して、自分の家は借家のままだよ。何だ、“遠い夢ばかり追って”って言われそうなのは、オスカーばかりじゃないな」
「まったく。男ってどうしてそうなのかしら」
 辛らつなトーニャの言葉に、一同は苦笑し合いながら階段ホールに降り立った。
 
 分厚いドアの向こうからは広間の音楽が聞こえてくる。
「どうする? 今なら最後のワルツくらいには間に合うと思うけど」
 ドアを指差すユーリアンに、トーニャは首を振った。
「やめとくわ。お母様に会ったらまた小言をいわれそうだし、アーニャのことも気になるから帰らなくちゃ」
「アーニャならもう眠っているだろう。明日の朝まで預かるよ。どうせお腹のベビーが生まれたら静かな時間なんて無くなるんだろうから、今日くらい水入らずで過ごせば?」
 気を利かしたオーリの言葉に夫妻は顔を見合わせ、笑った。
「そうだな、娘の様子ならトーニャの鏡で見られるし、何よりマーシャさんが付いててくれるから心強い。じゃ、帰りますか“奥様”」
 おどけたように腕を組みながら、ユーリアンは片手を挙げてオーリに感謝を示すと、海岸に続く庭へ向かった。

「家族、か」
 夫妻を見送るオーリは、何かを思い出すように呟いた。
「そうだ、さっきソロフ先生が言ってたけど、先生のお母さんって? 今どこに住んでるの?」
「さあね、あの辺かな」
 オーリは星々の煌めく夜空を指差す。つられて空を見上げたステファンは、はっと顔を曇らせた。
「ご、ごめんなさい。天国に行っちゃったんだね」
「謝ることはないよ。母とアガーシャが事故で亡くなったのは、もう二十年も前なんだ」
 オーリは暗い庭に出て歩き始めた。
「あまり多くは覚えてないけど……優しい人だった。でもひどい時代だったから、魔法を人前で使うところは見た記憶がないな。母が“賢女”という、魔女界では最高位の称号を持つ人だったと知ったのは、ずっと後になってからだよ」
「じゃあ、アガーシャは?」
「彼女はある意味、一族の犠牲者だ」
 庭のはずれに建つ岩壁に向かうと、音も無く海岸への道が開いた。来る時のように名乗りを上げなくとも良いようだ。
「ここなら悪口を言っても大叔父様には届かないな」
 オーリは皮肉な表情で岩壁の間を進む。
「魔法を使う連中なんて、偏屈なんだよ。だから一族で固まって、限られた中から伴侶を選ぶのが常だ。でもそうやって血の濃い者同士が結婚を繰り返した結果、アガーシャのように一つの力だけに特化したような魔女が生まれることもあった」
「一つの力だけって……あんな赤ん坊の姿なのに?」
「だから、それが彼女の力だった。つまり“一生無垢な赤ん坊で居る”ってことさ」
「一生ずっと? 二百六十年も生きたのに、成長しなかったの?」
「ああ。まさに“童心”の権化さ」
「皮肉なものだね、オーレグ」
 突然の声に驚いて二人が振り向くと、岩壁の入り口に黒い服の少年の姿が見えた。
「あ、ソロフ先生……」
 黒い服の少年――ソロフの“童心”は、道には入ろうとせず、入り口に立ったまま涼しい声で続ける。
「現実主義の魔女の最長老が、成長しない赤ん坊アガーシャだった。対して“童心”を重んじたはずの魔法使いの長老は干からびた姿でどうにか命を保っている。ステファン、君ならどっちがいい?」
「どっちもやだ。ぼくは何百年も生きたくないし、“童心”なんてよくわかんない。普通に成長するんじゃダメなの?」
 ステファンの言葉がおかしかったのか、少年は笑い声をたてた。
「ところでオーレグ、君もまだこの姿が見えるんだね。大丈夫、失ったものはいつか取り戻せるよ。より遠い血とより近い魂を伴侶に生きるんだ。オリガもシャーウンも果たせなかったことが、君にはできるはずだよ」
「そう願いたいですね」
 オーリが応じると、軽く手を振って少年の姿は消えた。
「ソロフ先生、見送りに来てくれたんだ。でも“心の一部だけ飛ばす”なんて器用だね。眠ったんじゃなかったの?」
「あの師匠なら眠りながら北極までだって行けるさ。やれやれ、口調まで子供に変わるんだからまったく……」
 オーリは苦笑いしながらも、ソロフの去った方に向いて目礼した。
 
 岩壁に挟まれた道を抜け、石畳の上に出ると、ユーリアンたちの姿はもう無かった。ただ遂道の入り口を示す白い紋様だけが、人影に反応するかのように微かな光を発している。けれどオーリは遂道に向かおうとはせず、海風に吹かれて白い月の浮かぶ夜空を見上げた。
「……そうだな、久しぶりに飛んでみるか」
「え、飛ぶって?」
「こんな月のいい夜に遂道なんて面白くないだろう。ステフも自力で飛ぶことを覚えたんだよな?」
 振り返ったオーリは悪戯っ子の顔になっている。ステファンはいやな予感がして後ずさりした。
「ちょ、ちょっと待って。飛んだといってもぼく全然知らずに……ガーゴイルもここには居ないし」
「誰がガーゴイルなんて使うと言った!」
 がし、と脇腹を抱えられたと思うと、次の瞬間には二人とも海の上に高く飛翔していた。
「ひぇええええええ!」
 ごうごうと風の舞う音がする。周り中の景色が渦巻きのように歪む中、ステファンは振り落とされないようにしがみつくのがやっとだった。
「死ぬ死ぬ死ぬーっ!」
 大げさではなく本当にそう思った。呼吸ができない。上下左右の感覚もむちゃくちゃ、熱いのか冷たいのか判らない強い風の中をオーリは飛んで行く。これはひどい。アトラスに乗って飛んだほうがまだましだ。

 時間にしてどのくらいだったのか、突然硬い地面を靴の裏に感じて、ステファンは前のめりに転んだ。ようやくどこかに降り立ったのだ。ホッとした途端、吐き気が込み上げてきた。
「おえ……」
 頭の中がぐらんぐらんだ。でたらめに揺れる視界の中に、見覚えのある白い家と灯りが見えた。
 玄関ドアが開き、真っ赤な髪がかがり火のように踊り出る。
「オーリ! ステーフ!」」
 真っ直ぐに走ってくるのはエレインだろうか?
 たった二時間ほど留守をしただけなのに、十年ぶりに会うみたいにに両手を広げて来る。
 冗談じゃない。この状態であの怪力ハグなんてされたら、死ぬ。
 ステファンは焦ったが、秋バラの植え込みの前でエレインは急に立ち止まった。
 何か言葉を飲み込むかのように口を引き結んで、バツが悪そうにオーリを見ている。目を真っ赤に泣き腫らしているように見えるのは、月明かりのせいだろうか。
「より遠い血とより近い魂……」 
 そうつぶやいたオーリもまた泣き笑いのような顔を見せた。ステファンの目の前で一足に植え込みを飛び越え、そのままエレインを抱きしめる。
「ちょ、ちょっとオーリ!」
 驚きながらもいつもの怪力で突き飛ばすわけでもなく、エレインはただ固まった。
「なに、いきなり……離しなさいよ」
「“やなこった”」
 出発前にエレインから言われた言葉をそのまま返し、オーリは離すどころかいっそう腕に力を込めた。

 もう、勝手に感動の再会劇でもなんでもやっててくれ、とステファンは頭を振った。とにかく胃の中がでんぐり返りそうで吐き気が治まらない。何か薬草茶を出してもらわなきゃ……
 よたよたとステファンが玄関に向かうと、マーシャが出迎えてくれた。
 
 オーリとエレインがその後何時頃家に戻ったのかは、知らない。

にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ 
読んでいただいてありがとうございます。応援していただけると励みになります。

 


 翌朝、アーニャを迎えに来たユーリアンが意味ありげに笑いながら朝刊を見せた。
「いいニュースだオーリ。例の“花崗岩”の事件が暴かれたせいで、竜人管理法がどうなるか、微妙になってきた」
 朝刊の三面には、竜人が封じ込められた岩の写真と共に過去の忌まわしい事件に関する簡単な解説が、“写真提供:魔女出版”として載っていた。
「何? 何て書いてあるの?」
 人間の文字が読めないエレインは写真を食い入るように見つめている。
「署名記事が付いているな。落雷によって竜人迫害の事実が暴かれたことを天啓と考えるべきでは、だってさ。よく言うよ今頃になって」
「あの落雷の後、オーリが連絡をくれたから良かったんだ。お陰でトーニャの同僚がすぐ写真を撮りに行って他社にもばらまいたもんだから、昔事件に関わった魔法使いどもが慌てたのなんの。見ものだったぜ」
 ユーリアンは面白そうに笑ったが、オーリは冷静に頭を振った。
「悪いけどユーリアン。ゴシップ好きの大衆紙や魔法使いしか読まない隔週誌が書き立てたくらいじゃ、管理法を変えるほどの影響は無いんじゃないかな。何しろ何十年も昔の事件だし、今さらって気もする」
「いや、今だから意味があるんだよ。さきの大戦から七年、世の中が豊かになるにつれて、自分達のしてきた事に疑問を持つ人間が増えてきたんじゃないのか? 事実水面下じゃお堅い連中も動いているらしい。もともと“管理法”に反対していた議員連中が証拠の岩を保護するために魔女の協力を求めてきたって話も聞くしね――おっと、早く帰らなきゃ。おいでアーニャ、ママが待ってる」
 ユーリアンに抱き上げられて、アーニャは満面の笑顔を見せた。
「パパ、アーニャいっぱいとんだよー」
 今朝早くから目覚めたアーニャは、森に守られたオーリの家の周りを存分に飛び回ってすっかり満足したようだ。
「またいつでもいらっしゃい、小さい魔女さん。ここは守られた場所だから、いくらでも飛んでいいからね」
 守られた場所――エレインの言葉を、ステファンは胸の中で反すうした。確かにこの家は、そうなのかも知れない。竜人も、魔女も、魔法使いも、周りに気兼ねせずに本来の自分でいられる。けれど本当は、街の中だろうが学校の中だろうが、いつでもありのままの自分でいられたら、どんなに楽しいか知れないのに。
「今度来るまでには、ぼくもちゃんと飛び方を覚えるからね」
 小さいアーニャの頭を撫でながら、ステファンは本気でそう思った。
 飛びたい。昨日みたいにオーリに振り回されるのではなく、自分の力で。自分のやりかたで。
 ユーリアン親子が帰った後、オーリもまた空を見ながらじっと何かを考えていた。

 午後、オーリはアトリエに大きな縦長のカンバスを持ち込んだ。
 描きかけのまま屋根裏で眠っていた絵だという。なぜそれを今持ち出したのか、覆い布を外しながらオーリは感慨深そうに絵を見上げた。
「以前描いていた時にはなぜ挫折したのか分からなかった。マティエール(画肌)が気に入らないだの、構図がどうだの、表面的なことばかり気になってね。でも違う。この絵に何が足りなかったのか、今ならはっきり分かるよ」
 こんな綺麗な絵に何が足りないのだろう、とステファンは不思議な思いで見上げた。淡い色彩で描かれた画面は、なるほどまだ下絵の線が残っていたりする個所はあるが、ステファンにはこれだけでも充分なように思える。縦長の画面に何人かの人物が上へ、上へと向かうような姿勢で並ぶのは、何かの舞踊だろうか。一番上の空に近い場所に描かれた人には翼のような物も見えるから、天使でも描こうとしたのだろうか。 
 ステファンの隣で同じように首を傾げているエレインの肩に手を置いて、オーリは力強く言った。
「エレイン、君を――いや、竜人フィスス族を描かせてくれ!」
「フィススの絵を?」
「そうだよ。傲慢な人間どもに思い出させてやるんだ、かつて竜人という尊い隣人が大勢居たことをさ」
 オーリはステファンにも明るい瞳を向けた。
「ソロフ師匠の言葉を覚えているかい? 絵描きには絵描きなりの戦い方があると言ってたろう。悪いが今からしばらくは、絵の制作が中心の生活になるよ。ステフ、君には助手を努めてもらうけど、いいかな」
「もちろんです!」
 張り切って答えたステファンは、ああこの目の色だ、と思った。最初にオーリに会った時と同じ、自信に溢れた力強い水色の目。やっぱりオーリローリ・ガルバイヤンはこうでなくちゃ。
 
 胸いっぱいに吸い込んだ風は、張りつめた新しい季節の香りがした。


にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ 
読んでいただいてありがとうございます。応援していただけると励みになります。

 


ムチャ企画(ムーンチャイルド)もあと少し。

この期に及んで(?)もう一作投稿しました。

 「ジャジャムのとき」(前・後編)
反抗期に入ったばかりの女の子を主人公にしました。
会話が方言なのでちょっと読みづらいかも……

ちなみにモデルになった田舎町は我が故郷ですが、
方言に関してはかなり変えてます。
だってね、ナマの方言を文字にすると、非常に読みづらい上に
読んでて違和感だらけなんですよ。
それならいっそ、テレビで耳に馴染んでいる程度の関西弁風にアレンジしちゃえってことに。
うーん、やっぱり違和感アリアリですけど。まあいいや。

舞台は現代ですが、雰囲気としてはベタで昭和~なホームドラマってとこでしょうか。
かなり天然!な登場人物が居ます。笑ってやってください。


 その日のうちに、オーリは描きかけの画面全体を油で薄めた深緑の絵の具で塗りつぶしてしまった。
 なんて勿体無いことをするんだろう、とステファンは思ったが、もとより絵のことなんかわからないし、黙って見ているしかない。それにオーリの目の輝きを見ていると、ここから何が生み出されるのだろうという期待のほうが勝ってくる。
 アトリエに、再びエレインが戻ってきた。
 相変わらず気ままに梁の上に寝転がって面白そうに作業を眺め、時折からかうような言葉を投げてくる。けれどそれだけで、寒々としていた部屋の雰囲気がいっぺんに変わり、皆をホッとさせるのは不思議だった。
 
 イーゼルに乗せると天井に届きそうなカンバスは、長身のオーリといえども画面の隅まで描き込むとなると大変だ。最初のうちはイーゼルに付いたハンドルで高さを調節しようとしていたが、重いので諦めたらしく、オーリは脚立を持ち込んで描き始めた。
 こと絵に関しては、オーリは一切魔法を使わない。数本の筆と刷毛とナイフを駆使し、描く、描く、ひたすら描く。 ステファンは助手といっても絵が描けるわけでもなし、オーリから指示された番号の絵の具を手渡したり、筆を取り替えたりするくらいしかできない。魔法修行とは何ら関係なさそうだが、それでも初めてオーリの役に立てる誇りで胸が躍った。
 問題はエレインだ。
 剣を構えたり弓に矢をつがえたりしてモデルを務めるはずが、ものの五分とじっとしていられないらしく、しばしばオーリに文句を言わせた。
「あーもう台無しだ! なんでそう動きまわるんだよ」
「だって退屈なんだもん」
「あの落ち着きのないユーリアンだって絵のモデルくらいは務まったぞ、君は筋力はあるくせにこらえ性がないんだ!」
「偉そうに言わないでよヘボ絵描き!」
 また、騒々しい日々が始まった。けれどステファンはもう心配しなかった。お互いの鼻先に噛み付かんばかりに大声でわめき合っていても、二人の間の空気が以前とは全然違うことに気付いたからだ。
「せんせーい、あんまりエレインを怒らせてると絵の中の人まで怖い顔になっちゃうよ」
 落ち着いたステファンの声に二人は吹き出し、それぞれの位置にまた戻る。

「おやまあ、すごい臭いだこと」
 アトリエにお茶を運ぶマーシャが顔をしかめた。
「いくらお仕事に熱中してても換気はしなくちゃいけませんよ、オーリ様。ステファン坊ちゃんにも良くありません」
「溶き油の臭い? ぼく慣れちゃったよ」
「そうら、その“慣れる”っていうのが良くないんです」
 マーシャは厳しく言って窓を全開にした。
「確かに揮発油の臭いは身体に良くないな。悪かった、ステフ。助手を頼んだからといって一日中アトリエに篭っていることはない、時々は外に出て遊んで来ればいいよ」
「それで言うんなら絵の具も毒なんでしょ。絵筆を口にくわえるクセはやめなさい、オーリ。あたしまで被害を受けるから」
 お茶を飲もうとしていたオーリは顔を赤くして咳き込んだ。

 そんな日々を送るうちに、不思議な変化が起きた。
 オーリは以前のように大食しなくても魔力を保てるようになって、マーシャを大いに驚かせた。逆にエレインは人間の食べ物に興味を持って、甘いデザートくらいは恐る恐る口にするようになってきた。
「無理に人間に合わせることはないんだよ」
 心配そうなオーリにエレインは首を振った。
「別に無理はしてないわよ、前から食べてみたかったの、本当は。でもなんか、怖くてさ。人間の食べ物を食べちゃうと、竜人じゃなくなるような気がして」
「何を召し上がろうと、エレイン様はエレイン様でございますよ」
 マーシャは嬉しそうに言った。
「確かに。この二年間酒とお茶しか口にしなかったのに、その丈夫そうな犬歯は衰えそうにないもんな」
「竜人の牙と言ってちょうだい」
 軽口の応酬をしておいて、エレインはふと真顔になった。
「ねえオーリ、竜人と人間の祖先って、どのくらい近いのかしら」
「祖先? さあ、どうかな。どうして急にそんなことを?」
「確かフィスス族を生み出したお母さんは、紅い竜だったんだよね」
 ステファンは落雷の時に見た美しく大きな竜を思い出しながら言った。
「創世譚では、そういうことになっているわ。でもわからないのは“始めの父”よ。東方から来た皇子、という以外には何も伝えられていないの。今まで知ろうとも思わなかったけど……」
「似たような話なら、人間の世界にもあるさ。母は昔、父のことを“東洋の龍の子孫”だと言っていた。もちろんそんなのはおとぎ話なんだけど、子供の頃は本気で信じていたよ」
「それ、本当におとぎ話なの?」
 エレインが目を輝かせた。
「ああ、残念だけど。でも、祖先のことはともかく、フィスス族の存在を知った時に不思議に親しみを覚えたのは事実だ。母の言った東洋の“龍”というのは西洋ドラゴンと違って、翼がないんだ。それに、雷や雨を司るとも言われている。フィスス族の始母竜の話と驚くほど似ているね。それと、ガルバイヤンという姓――祖父ヴィタリーの通り名だが――も、“雷を操る”という意味を持っている。なんだろうね、この類似は」
 
 窓から吹き込む風が、黄金色の落ち葉を運んできた。秋の午後は短いが、まだ陽は輝いている。オーリは席を立ち、散歩に行こう、とエレインを誘った。
「ステファンも来るかい?」
「ええと――ううん、いいや。ぼく、“半分屋敷”の手入れをしなくちゃ」
 ステファンだってもうじき十一歳だ。こんな時に“おじゃま虫”になるほどお子ちゃまではない。オーリ達よりひと足先に外に出て、庭に向かった。

「運命というものですよ」
 マーシャはオーリ達を見送りつつ一人で微笑んだ。
「わたくしは最初から分かっておりました、エレイン様は来るべくしてオーリ様の元にいらした方なんです、きっと」 

 ステファンは庭草に埋もれた“半分屋敷”の前で腕組みをして考えた。手製の日除けはもう要らない。その代わり、寒くなるまでに崩れた壁を自分で直してみよう、そう思った。たとえ時間がかかっても、不恰好でも、一つ一つ石を積み上げていくのだ。オーリの魔法に頼るのではなく、自分の手で。
 庭草の間に白い物が光っている。ステファンが置き忘れた蝋石(ろうせき)だ。夏の間はこれで壁石に落書きをして遊んだ。
「――捕まえた!」
 ステファンが手を伸ばすと、小さな蝋石は真っ直ぐに飛んで手の中に納まった。今はまだこんな力しかない。でも、もう頭痛は起こらない。ステファンは満足そうにうなずいて、一番大きな壁石に自分の名前を記した。


にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ 
読んでいただいてありがとうございます。応援していただけると励みになります。

 


 アトリエから出ると、廊下は秋の陽射しが斜めに差している。来客にお茶を出すという初めての“大役”を果たしたステファンは、盆を抱えてホゥとため息をついた。
 最近オーリは、夜も昼もなく絵の制作に没頭している。と共に、アトリエのお客も頻繁に来るようになった。オーリが今取り組んでいるあの大きな絵の出品について話し合うためだ。

「どうやら間に合いそうだね、ガルバイヤン」
 午後のアトリエでお茶を飲みながら、客人はホッとしたように言った。
 薄い金髪をきれいに撫でつけた頭で何度もうなずき、眼鏡の奥から灰色の目を輝かせてにオーリの絵を見ている。
「まだ八分がたってところですが。大丈夫、ちゃんと仕上げるから」
「今回は店の展覧会とはわけが違う。アート・ヴィエーク主催といえば海外からも目の肥えたお客が集まるからね。うちのブースの目玉にしたいんだ」
 立ち上がり、正面からしげしげと絵をみていた客人はオーリを振り返った。
「それにしてもだ。作風が変わったのは仕方ないとして、なんで名前まで変えたかね。十代の頃本名で描いてた時は天才児とか騒がれてたのに、みすみす看板を架け替えるようなもの……あ、いやその」
 水色の目が不愉快そうにこちらを向いたのを見て、客人は慌てて話題を変えた。
「相変わらず描き始めると早いな。もっとも取り掛かるまでが遅くていつもハラハラさせられるが」
「早くないですよ。昔の聖堂で壁画を描いてた絵師達の仕事はこんなものじゃなかったはずだ」
 オーリは遠い目をしてカンバスを見上げた。
「壁画、か。なるほどそんな雰囲気もあるなあ。これはいいよ、ガルバイヤン。竜人というモチーフもいい。他の画家には悪いが、今回の展示の中では群を抜いて高額がつけられると思うね」 
「どうかな、流行の抽象画ならともかく……まあ値段の話はあんたに任せますよ、キアンさん。わたしはただ、一人でも多くの人にこの絵で訴えたいだけだから」
 腕組みをして立つオーリの銀髪は伸び、無造作に束ねられている。絵の具だらけの襟の上では、顎の周りに無精ひげすら見える。けれど水色の目はそれ自体が発光しているのではないかと思えるほど強い輝きを放っていた。
「いい顔になったな、魔法使いくん。すっかり“戦う芸術家”の風貌だ」
 キアンと呼ばれた壮年の来客は、画家の横顔を見ながら愉快そうに笑った。
 
 
 ステファンは一階に降りると、思い切り背伸びをした。
 今日は、マーシャもエレインも出掛けている。お茶の淹れ方だけは教わっていたものの、なんだか緊張して疲れた。難しい顔で仕事の話をしている時のオーリは近寄りがたい。いつもエレインやステファンと冗談を言い合っている時とは別人かとさえ思ってしまうほどだ。
「大人の話には口をはさんじゃいけないし。子どもってつまんないや」
 ステファンはキッチンに盆を放り出し、クッキー入れはどこかな、と戸棚を探し始めた。
 戸棚の中は、マーシャが作り置きしたジャムの瓶やクッキー缶がきちんと並んでいる。これが近所でも結構評判らしく、今日もマーシャは近所のおかみさん達の集まりに招かれて行ったのだ。
「あー、いっけないんだ、つまみ食い」
 いつの間に帰ったのか、エレインがからかうように言いながら顔を覗かせた。
「遅いよエレイン。先生のところにお客さんが来てるんだ。お茶はなんとか出したけど、カップなんてどれを使ったらいいかわかんないし、ぼく一人で困っちゃったじゃないか」
「で、クッキーも出すの? どんなお客?」
「ええと……このごろよく来てる、なんとかいう画廊のメガネの人」
「画廊?」
 エレインは眉を上げて少し考えたが、すぐに笑い出した。
「ああ、サウラー画廊のキアンっておじさんでしょ。クッキーもジャムも要らないわよ、あの人お砂糖がダメらしいから」
「へえ、そうなんだ」
 ステファンは半ばホッとして、改めてクッキー缶を取り出した。
「じゃ、おやつにしようっと。マーシャがね、青い缶のは家族用だから食べていいって言ってたよ。エレインも食べる?」
「もちろん」
 もうすっかり人間の食べ物――といってもお菓子だけだが――に慣れたエレインは、缶の蓋を取ろうとしてピクと耳を動かした。
「――オーリが何か変」
「え?」
 ステファンが聞き返す頃には、エレインは階段を駆け上がっていた。

「そんなばかな!」
 廊下にまで響くのは、ひどく怒ったようなオーリの声だ。
 アトリエの椅子では、キアンが困惑したような顔で座っている。
「悪い話ではないと思うが。何か問題でもあるのかね?」
「おお有りだ。なんでカニス卿の名前がそこで出てくるんです!」
「オーリ、火花」
 エレインに注意されて、オーリは背中で散っていた青白い火花を消した。
「ごめんねキアンさん、普通の人から見たら、魔法使いの出す火花って怖いわよね。で、カニス卿って誰?」
「これはエレイン嬢。いや、ガルバイヤンの絵を気に入ってくれたらしくてね、今後出資者になってもいいと名乗りを上げた人のことだよ」
「カニスって、前に駅で竜人をいじめてた人だよね」
 ぼそっとつぶやいたステファンの言葉に、エレインが顔色を変えた。
 オーリはたしなめるような目を向けたが、仕方ないな、と言って駅やパーティーでのいきさつを説明した。
「なるほど、君とは個人的な因縁あり、というわけだ。出資の話は何か魂胆がありそうだな」
 キアンは面白そうにオーリの表情を伺っている。
「魂胆もなにも、嫌味に決まってるじゃないですか。早速カネの力を見せつけようというわけだ」
「当然君は断るだろうから、その次の手も考えているんだろうな」
「まさか出品の妨害をするとか?」
「いや、わたしなら君の絵を独占的に買い占めた上で今後の作品発表の場を奪うことを考えるだろうな。そうすれば絵の値段は吊りあがり、ガルバイヤンという絵描きを屈服させることもできる。一石二鳥だ」
「……恐ろしいことをさらりと言わないでくださいよ。出品したくなくなってきた」
 頭を抱えるオーリの横で、さっきから黙って聞いていたエレインが口を開いた。
「いいえ、むしろ出すべきだわ」
 緑色の目は鋭いままでオーリのほうに向き直る。
「オーリ、画家には画家の戦い方があるのよね? あたしは絵の事は解らないけど、戦いなら絶対にしちゃいけないことがあるわ。“敵前逃亡”よ」
 オーリが驚いたように目を見開いて、ごくりと唾を飲み込む音がステファンにも聞こえた。
「君らしい考えだなエレイン――いや待てよ」
 しばらく考えていたオーリは、顔を上げて絵をみつめた。
「守護者どのの言うとおりだ。戦う方法は確かにまだあったな。正攻法かどうかは知らないが」
「おいおい! まさかカニスと魔法合戦でもしようなんていうんじゃないだろうな。うちも商売だ、お得意さんを怒らせてもらっちゃ困るよ」
 キアンの心配を打ち消すように、オーリはニヤリと笑ってみせた。
「大丈夫、ちゃんと画廊には儲けてもらいますよ。カニス卿に伝えてください。お近付きのしるしに今回の作品には卿の顔を描き入れさせてもらう、とね」

にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ 
読んでいただいてありがとうございます。応援していただけると励みになります。

 


 画廊のキアンが帰った後、オーリは新聞社や雑誌社に使い魔のカラスを送った。ここしばらく郵便と電話に仕事を取られていたカラスどもは、喜んで飛び立って行った。

「信じらんないよ! どうしてあの嫌な髭男の顔なんて描くの?」
 最後の一羽が飛び立つと、ステファンは抗議した。オーリの仕事に口出しをするつもりはなかったが、今度の絵はエレインがモデルになっているのだ。その画面によりによってあの憎たらしい顔を描き入れるなんて、絵が穢されるような気がして嫌だった。
「うーん、やっぱりイメージだけじゃ似てこないもんだなあ。写真が届くのを待つか」
 オーリは呑気に鉛筆を指で回しながら、スケッチブックにカニスの髭づらを描き起こしている。
「先生ってば!」
「あ、ステフ。君のお茶、美味しかったよ。お代わりをポットで持ってきてくれるかな」
 全く意に介せず、といったオーリの態度にぷうっと頬を膨らませて、ステファンは乱暴にティーカップを下げた。

「そんな扱いをしちゃカップが傷つくわよ。それ、マーシャのお気に入りなんだから」
「だって! エレインも先生に何とか言ってよ、カニスなんかと一緒に描かれて平気なの?」
 憤慨するステファンと共に階段を下りながら、エレインはふっと微笑んだ。
「絵のことでは彼に何を言ってもムダよ。完成を待ちましょ。オーリのことだから、きっと何か企んでるに違いないわ」
 そうして先に下り、階段のステファンを見上げて言う。
「あたしのために怒ってくれてありがと、ステフ」
 どきりとして、ステファンは立ち止まった。何だろう、最近のエレインは。明るい緑色の瞳は変わらないが、時々竜人らしい猛々しさが消えて妙に雰囲気が和らぐ時がある。以前なら真っ先にオーリに抗議するのは彼女の役目だったろうに。
「なんだよ! なんだよなんだよ先生もエレインも! ぼく一人で怒ってバカみたいだ!」
 ステファンは赤い顔をしてキッチンに向かい、次はうんと苦いお茶を淹れてやろう、と思いながらケトルを火にかけた。

 しかしそんな腹立ちも、翌日からのオーリの苦闘ぶりを見ているうちに消し飛んでしまった。これまでも昼夜の区別なく絵に向かうのは大変そうだったが、オーリはむしろその大変さを楽しんでいるようにさえ見えたものだ。けれど仕上げの段階になって、彼は苦しい表情を隠さなくなってきた。
 絵の中の竜人たちは、完成が近づくにつれて命を持ったかのように生々しい存在感を示すようになった。オーリは逆にひと筆ごとに憔悴していくかに見える。まるで自分の魔力を削って絵に分け与えているようだ、とステファンは思った。
 心配してそれを口に出すと、隈のできた目元に笑みを浮かべてオーリは答えた。
「作品を世に送り出すというのは、そういうことなんだよ」
 愛用のマホガニーのパレットはすでに何色の絵の具がこびりついているかわからない。さらにその上で新しい絵の具がぐしゃぐしゃにせめぎ合い、オーリの格闘ぶりを示している。オーリはそれを抱え、これでもか、これでもかと筆を運ぶ。
 エレインはただ黙って見守っていた。
 
 そしてある寒い日。夜通し描き続けていたオーリは脚立に上り、最上部の竜人を描き終えたところで筆を止めた。絵の具の染み付いた手を照明に向けると、それに応じるように灯りが消える。いつの間にか夜は明け、北側の天窓からは、柔らかい朝陽が光の帯を投げかけていた。オーリは自然光の中でしばらく絵を見つめ、よし、とひと言短く言ってうなずいた。
 天井の梁の上で見ていたエレインはうなずき返すと、腕を伸ばして絵の具に汚れた顔をしっかりと抱き寄せた。
 眠くて半ば朦朧としていたステファンの目に、不思議な光景が映る。下絵に塗り込められていたはずの翼を持つ天使が絵を抜け出し、オーリに賞賛のキスを与えている――どこまでが現実でどこまでが夢なのかはっきりしないまま、ただあの絵が完成したのだということだけ、分かった。ステファンは安堵の息をつき、アトリエの壁にもたれたまま眠りに落ちた。

 気が付けば、十月も半ばになっていた。

 
にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ 
読んでいただいてありがとうございます。応援していただけると励みになります。

 


  十一月最初の土曜日。

 首都の駅から程近いヴィエークホールには、多くの人が訪れていた。この季節には珍しく、空は穏やかに晴れている。灰白色の古めかしい建物は、もとは貴族の所有する小さな城だったのだが、戦後台頭してきたヴィエークという財団が買取り、二年に一度、若い芸術家のために大規模な美術展を開いていた。
 
 広いホールの中は幾つかのブースに仕切られ、いつもは個別に細々と展覧会など開いている画廊主がここぞとばかりに店自慢の作品を並べる。あるいは個人で出展する者も居る。有名無名の別もなく、若手の芸術家が自分の野心作を世に問う場に生まれ変わった古城は、静かな熱に満ちていた。
 
 平和だな、とつぶやく画家が一人、円柱にもたれて人びとを観察していた。描きたいものを描けず逃げ回った少年時代が嘘のようだ。世の中がどう変わろうと、美を求めようとする人の心が消えないものならば、平和なほうが良いに決まっている。買い付け目的で訪れた美術商に混じって、ただ新しい感覚の作品を楽しむため、我が家の壁に飾る小さな絵を求めるため、行き交う人びとの後ろに見えるのは、つつましい幸福の色だろうか。そんな幸福の陰で忘れ去られようとする者たちが居るのも確かだが……

「わ、先生。ずっとここに居たの?」
 ぶつかりそうになった少年が、驚いて鳶色の目で見上げた。
「ずっと居たよ。気配を消してると風景の一部になってしまうから分からなかったんだろう」
「うん。あのね、先生の絵、すごく評判いいみたいだよ。すぐに良い買い手がつくだろうって!」
 無邪気な少年の言葉に微笑み、画家は冷静に言った。
「あんまり早く売れるのは困るな。主賓が来てからでなきゃ面白くない。じっくり交渉するように言っておいてくれ」
「わかりました。でも、ちょっと他のとこも見てきていい?」
 答えを待たずホールに向かう小さな背中に、迷子になるなよ、と言いかけて画家は苦笑し、自分に言い聞かせた。
「過保護だぞ、オーリローリ。ステファンだってもう十一になるんだから」
 
 ホールの一隅から場違いなほど声高にしゃべる人物が現れた。画家の待ち人が来たらしい。取材に来た新聞記者や雑誌記者を見て何を勘違いしたか、下品な笑い声を立てている。
「来い、カニス。舞台はこっちだ」
 誰にも聞こえぬようにつぶやき、銀髪の画家は円柱の向こうに消えた。

 オーリローリ・ガルバイヤンの絵の前には人だかりができていた。
 暗い緑色をベースに、燃えるような赤い髪が踊る。肥沃な大地を蹂躙する人間たち、誇り高く剣をかざして戦い果てる竜人、そして混沌の地を離れ、天高く舞う美しい娘――竜人フィスス族の過去、現在、未来がひとつの画面に表現されている。
 最上部に描かれた竜人の娘は、まぎれもないエレインの顔だ。背中には、微かな光が翼の形に浮き出ている。全体的に重い色調の画面のところどころに絵の具を掻き取ったような跡があり、下絵に描かれた明るい色が顔を出して画面に光を与えている。オーリが一度全体を塗りつぶしてしまったのはこういう計算があったのか、とステファンはため息をついた。
 カニス卿の顔は、確かに描かれていた。画面の最下部、どす黒い混沌の地に鎖で繋がれてぶざまに吠え立てる――犬(canis)の姿で。

「こっ、こっ、これは何だあ!」
 カニス卿は大きな腹を揺らしてわめいた。
「バカにしおって若造が! こんなものは芸術の名に値せん! おいサウラー画廊、事と次第によっては……」
 だがそんなわめき声も、次々と焚かれるフラッシュやカメラのシャッター音にかき消された。成り上がり者のカニスを日ごろから良く思わない大衆紙の記者など、溜飲が下がったような顔で絵の中の“犬”とカニスの髭づらを並べて撮っている。
「オオ、素晴ラシイ、シュールデス!」
 カニスを押しのけて外国人らしい女性が声をあげた。
「美シイ! 竜人ガ生キテイマス。コノ国デコンナ絵ニ出会エルトハ」
「全くだ、奇をてらっただけの抽象画が多い中で、久々に魂のこもった絵を見ましたぞ」
 画商らしい別の男も、顔を上気させてさかんに画廊主のキアンに話しかけている。
 人びとは絵を賛嘆する一方で、壊れた機械仕掛けの人形のように口をパクパクさせているカニスの顔を見ては失笑をこらえている。
「お気に召して頂けたかな、カニス卿」
 人垣の頭越しに、銀髪の青年がのどかに声を掛けた。
 一瞬怪訝そうに青年を見上げた人びとの中から、記者たちがまず気付いてどよめいた。
「ガルバイヤン! あなたはこの絵の作者、ガルバイヤンですね?」
「カニス卿の出資を受けるというのは本当ですか?」
「卿、犬の姿に表現されたご感想は? 何かひと言!」
 凹面型のフラッシュが一斉に焚かれる。赤ら顔をさらに赤くしていたカニスは、記者たちに取り囲まれてオーリを睨んだ。
「貴様……我輩に恥をかかせたつもりだろうが、後悔することになるぞ」
「はて、恥とは?」
 オーリはすっとぼけた顔で応じた。
「わたしは筆に任せて表現したまでですよ。絵の解釈は人それぞれだ、出資の話もお心任せということで」
「気ニ入ラナイナラ、アナタハ退キナサーイ、犬男爵サン。コノ絵ハ私ガ買イマース」
 白い手を挙げた外国人女性に、周囲から拍手が起こる。画商たちは焦った顔を見せた。普通この手の美術展では、絵を買い取るなら画廊を通じて個人的に、静かに交渉を進めるのが常だ。
「いや、ちょ、ちょっと待ってください。私が先に交渉を」
「いいえ、当店こそが」
 
 にわかに賑やかになるブースの中央で、突然カニスが笑い始めた。
「くくく、なるほどねえ。まんまと策略に乗せられましたな」
 ざわめいていた人びとが一斉に振り返った。
「諸君、気をつけたまえ。この若造は魔法使いだ。自分の作品を売り込むために人の心を操るくらい、わけはない。しかも家に赤毛竜人の娘を囲ったりして、不道徳極まりない奴だ」
 オーリの水色の目が怒気を含んで光った。“竜人の娘”という言葉に反応した記者が、今度はオーリを取り囲む。
「あの絵に描かれた竜人のことですね? モデルが実在するんですか?」
「どの竜人です? ひょっとして、あの一番上に描かれた美人がそうですか?」
 なんて人たちだ、とステファンは記者たちを睨んだ。ついさっきまで“犬のカニス”を笑っていたくせに、面白そうな話題なら何にでもとびつくのか。モデルがどうとか、絵の価値とは関係ないじゃないか。幸い今日はエレインを連れて来てはいないが、何でオーリはこんな連中を呼び寄せたのだろう? わざわざ使い魔まで飛ばして。
 ステファンの不安をよそに、オーリは冷静な顔で答えた。
「確かに、あの竜人のモデルとなったのはわたしの守護者ですが。カニス卿には逆に“不道徳はどちらか”と申しあげたい。一たび魔法使いが竜人と契約したなら、ずっと共に居るのはむしろ当然だと思いますよ。あなたのように、年端も行かない少年の竜人をカネで売り払うなど、わたしには信じられないね」
 落ち着き払ったオーリの声に、人びとはおお、とうなるような声をあげた。
「我々は遥かな昔から、竜人の偉大な力の恩恵を受けて生きてきた。思い出して欲しい、皆さん。この国が戦後の痛手から立ち直る時、人間の手では何年かかるか知れなかった港や街の修復を、一体誰が担ってくれました? その代償として我々は、彼らに何を返してきたのです?」
 ステファンははらはらしながら成り行きを見守っていたが、ふと気が付いて、大人達の足元をかいくぐり、カニスの背後に近づいた。オーリは冷静に話を続けている。
「―――わたしがこの絵を描いたのも、我々の罪を忘れないためだ。かつて隣人として大勢いたはずの、竜人の尊厳を取り戻したいからだ!」
「ところでその竜人の娘ってのは、今日は連れて来なかったんですか? ぜひ取材させて頂きたいんですがねえ」
 オーリの言葉など耳に入らないように軽薄な調子でカメラを掲げる記者を、水色の目が睨む。ピシ、と音を立てて、フラッシュ球が割れた。
「本当に竜人の話を聞きたいなら、礼を尽くして管理区にでも取材したらどうです? どれほど人間が理不尽な仕打ちをしてきたか、嫌になるほど分かるはずだが」
 気迫に押されたように、記者はすごすごと人垣に隠れてしまった。
 
「ごたくはそのくらいにしておくんだな、ガルバイヤン」
 傲慢な目を向けて一歩踏み出そうとしたカニスが、う、と口髭を歪めた。
「ずるいよ、おじさん。魔法使いはこういう場所で杖を使っちゃいけないんだ。そう習わなかったの?」
 こっそり杖を向けようとしたカニスの手を、ステファンがしっかりと押さえている。
 周りの人は飛びのき、非難の声を浴びせた。
「魔法使いの公共の場における禁止事項違反。記者さん、今のはちゃんと撮ったんだろうな」
 オーリは口の端を上げて皮肉っぽく言ったが、決して目は笑っていなかった。
「カニス卿、幸運でしたね。違反が未遂で済んだことをこの子に感謝なさい」
 悠然と言い捨てると、ステファンを連れてその場から離れようとした。

「は、いい気になりおって! 貴様はもうお終いだぞ、ガルバイヤン。我輩はヴィエークの者にも顔が効くんだ、分をわきまえない生意気な若造など、画壇に居られなくしてやる!」
 カニスは真っ赤な顔で幼児のようにあからさまな憎悪の言葉を投げつけている。オーリは画廊主に肩をすくめてみせた。
「だってさ、キアンさん。どうする?」
「さてねえ。“顔が効く”ヴィエークに言ってつまみ出してもらおうか。あんなのがきゃんきゃん吠えてたんじゃ、美術展の品位に係わるからね」
 うんざりしたようなキアンは手を挙げ、各ブースを見回っている係員に合図を送った。

「カニス? そんな名ではなかったはずだ。確かあの者は……」
 人垣の後ろから騒ぎをじっと見つめる人物がいた。誰にも気付かれることなく、彼は静かに会場を後にした。
 
 
にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ 
読んでいただいてありがとうございます。応援していただけると励みになります。

 

 


 会場の外に出ると、オーリもステファンも、さっきのやりとりを思い出してどちらともなく笑い出した。
「よくやったステファン・ペリエリ! あの時のカニスの顔といったら! 風刺画にして新聞に載せてやりたいくらいだよ」
 空を仰ぐオーリは心底愉快そうに銀髪を揺らした。
「ぼくもスッとした。先生こそすごいや、あんな大勢の人の前でカニスをとっちめるなんてさ。エレインにも聞かせてあげたかったな」
「ばかいえ、あれでも足が震えてたんだぞ。緊張が過ぎて人前で火花がパチパチ飛び出したらどうしようかと思ってたさ。カニスが先に杖を取り出してくれなきゃ、こっちが“違反”をするところだったよ」
 二人で背中を叩き合ってひとしきり笑い合った後、ふとステファンは心配になった。
「先生、さっき最後にカニスが言ってたことだけど。まさか仕返しに、先生の絵を売れなくしたり……とか」
「あり得るね」
 オーリは涼しい顔でうなずいた。
「あれだけ恥をかかされて大人しく引き下がるようなやつじゃないだろう。まあ今回の作品は売れるだろうから画廊側に損をさせることはないとして、問題はこれからだな。カニスのわめいてた事も、あながち不可能なことじゃない。絵が売れなくなったらどうするかなあ。トーニャにでも泣きついて魔女出版に仕事を回してもらおうか?」
「そんな……」
 他人事のように笑っているオーリを、ステファンは呆れて見上げた。
「理想はどうあれ、大人の世界は汚い。覚悟はしてるよ。どんな分野でも、大抵の人はその汚い波にもまれながら、どこまで妥協してどこまで自分の誇りを守るか、そのせめぎ合いで毎日格闘してるんだ。このわたしだって今は偉そうに言ってるけどね、かつては“汚い大人”に負けて、自分の意に染まない絵を描いてた時期もあったんだよ」
「描きたくない絵を描いてたってこと? 絵描きさんって、好きなものを描いてるんじゃないんですか?」
 目を丸くするステファンには答えず、苦い笑みだけ返して、オーリは電車通りにではなくヴィエーク・ホールを巡る小径へと足を運んだ。小径は庭園を縫って黄金色に色づく木立へと続いている。

「わたしは画家としては割と早くに認めてもらってね。まだソロフ師匠の元に居た頃から、あちこちで公募展やコンペ(競作展)に挑んでは、賞を獲得することに躍起になっていた。そうやって絵の世界で名を上げることで、何処にいるか知れない父に気付いてもらえるかも、なんて考えていたんだ。本名のオーレグで描いていたのもそのためさ」
 穏やかな午後の風が葉を揺らすと、木漏れ日も揺れる。オーリはそれを仰ぎながら話続ける。
「ところがそれに目を付けたのが大叔父だ。有力な貴族議員や将軍の肖像画を描かせて、我が一族を守るのに利用しようとしたんだね。たかだか肖像画くらい、大した賄賂(わいろ)にもならないと思うんだが、大叔父も必死だったんだろうな、他にもいろいろと裏で使われた魔女とか居たから……とにかくそれからは自分の描きたいものなんて一切描けなくなった。毎日描きたくもない脂ぎった顔だの、ばかばかしい勲章だのばかり見ながら過ごさなきゃいけない。思い出しても反吐が出そうだ」
 湿った朽ち葉を踏みしめながら、ステファンは十代の頃のオーリに同情した。なまじ人の心の内側が見えてしまう彼は、毎日どんな気持ちで筆を取っていたのだろう。
「それでも、これも一つのチャンスだ、と考えて手を抜かずに描いたんだ。もしかしたら肖像画家として名を知られるようになるかも知れない、それに同年代の中には十代で戦場に送られた魔法使いも居る、それに比べたら絵を描いて兵役にも付かずに済むならこんないいことはないじゃないか、ってね。戦争が酷くなるにつれて画材も手に入れにくくなってた頃だ、どんなに嫌な仕事だろうと奴らにしがみついてさえいれば、画材を手に入れられるのも大きな魅力だった。ところがある日、目の前に居るのがどうにも許しがたい人物だと知って、描けなくなってしまった」
「誰、だったんですか?」
「ウルフガング・ミヒャエル・グランネル将軍。―――嫌だな、まだフルネームで覚えてたよ―――魔女や魔法使いの力を戦争に利用した張本人だ。その昔母やアガーシャが死んだのだって、奴の考えに反対して追い詰められたせいだ」
 高い木の梢で、甲高くヒヨドリが鳴いた。ステファンは胸が痛む思いでオーリを見上げたが、彼は感情を表すこともなく淡々としている。
「もちろん先生は断ったよね? そんな仕事」
「断るだって? そんな選択肢は無かったよ。わたしにできたことと言えば、大叔父の家から逃げ出すことくらいさ。エレインの言葉を借りるなら敵前逃亡、だな」
 オーリは冗談めかして言ったが、笑える話ではない。ステファンは唇を噛んで話に聞き入った。
「しばらくはあちこち逃げ回ったけど、結果は見えていた。大叔父の探索魔法で見つかって連れ戻されたんだ。さんざん叱られ、一族こぞって前線に送られたいのかと脅されてね。結局描かざるを得なくなった。皮肉なことに、その時に描いた絵が評価されて、わたしは十八にして望みどおり肖像画家として認められたんだが……」
 オーリは自分の右手をじっと見た。
「その時思ったんだ。この手は自分の魂を裏切った、もうどんなに有名になろうと父に認められる絵なんて描けないだろう、ってね。それからまもなく戦争が終結して肖像描きからは解放されたんだが、真っ先にした事は何だと思う?」
 ステファンは黙って首を振るしかなかった。
「将軍の絵を展示してある美術館に忍び込んだんだよ。戦争が終わって古い価値観は終わりを告げた、なら絵だって同じだ。あの恥知らずな肖像画を破いて、大叔父の仕組んだ茶番をお終いにしてやろうと思ったんだ。その結果どうなろうと知ったこっちゃ無い、魔力を封じる罰を受けても、二度と絵が描けなくなっても構わないとさえ思ってた。実際、そうなるところだったよ、ソロフ師匠に止められなかったらね」
 二人の足音に驚いてか、茶色いリスが走り過ぎる。オーリはそれを目で追いながら微笑んだ。
「師匠には何もかも見透かされてた。わたしが苦しんだことも、思いつめて美術館に忍び込んだことも。その上で諭してくれた。“時の試練”という、例の言葉でさ。“一時の感情に流されて将来に傷を残すより、その悔しさも恥すらも力に変えて、どんな人間の心も動かすくらいの絵を描いてみろ”とね。その時自分に誓ったんだ。助けてくれたソロフ師匠の為にも描き続けよう、けどもう二度と魂を裏切るような絵は描くまいって」
「もしかして、先生が名前を変えたのってその時から?」
「そう。オーリローリ、ふざけた響きだろう。どこの国の言葉だったか、“笑う光彩”という意味だそうだ。この名前によってわたしはまた一からやり直せたんだ。ついでに“ガルバイヤン”の姓も消したかったんだが、さすがにそれは死んだ母に悪くってね。中途半端な改名になっちまった。こんなので一からやり直した、なんて言うのはずるいかな」
 そんなことはない、と言おうとしたステファンの前で木立は途切れ、車の行き交う大通りが見えてきた。
「おしゃべりしてたら反対側に出てしまったな。近くだから、ついでにユニオン本部に寄って杖を受け取ってこようか」
「え、杖って何の」
「君の杖に決まってるだろう!」
 オーリに明るい瞳を向けられて、やっとステファンは思い出した。八月に申請した、魔法使いとしての最初の杖のことだ。
 
 通りの向かい側に、息をひそめるように建つ中世様式の細長い尖塔が見える。尖塔を見上げながら、オーリは指を弾いて黒いローブを取り出した。
 
 
にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ 
読んでいただいてありがとうございます。応援していただけると励みになります。
 

 尖塔のある細長い建物の中は昼間だというのに薄暗かった。埃と煙と古い薬油の混じったようなにおいが漂っている。ゴトゴトと足音のする木の床を進んで正面の事務机に向かうと、長い灰色の髪をした魔女が顔を上げた。
「杖の申請者だね」
 オーリが口を開くよりも早く、魔女は丸い眼鏡をずりあげ、面倒くさそうに言って書類を広げる。
「ここにサインを。ああ、あんたもだよおチビさん」
 おチビと言われて少しムッとしながら、ステファンは魔女の枯れ木色の顔をなるべく見ないようにして几帳面な文字を書いた。
「なんだね、そんなにたっぷりインクをつけちゃ乾きにくくってしょうがない。お若いの、あんたが師匠だね。杖は後ろの棚にあるから、自分でお探し」
 魔女は書類にインクの吸い取り紙をぐりっと押し付けて、何やら記号を書いた紙片をオーリに渡した。
「随分と手続きが簡素になったもんですね」
 皮肉を込めたオーリの言葉など意に介さず、魔女は眼鏡の奥の黄色い眼を細めてため息をついた。
「今どきはこんなもんさね。ああ、昔は賑やかだったねえ。大勢の子が順番待ちで並んで、ちゃんと戴杖式なんてのもやったもんさ。あんたら若い者はそんなの知らないだろうね」
「いえ、わたしはギリギリ“戴杖式世代”ですよ――あった、これだ」
 オーリは棚の中から杖の箱を選び出すと、蓋を開けて中を確認した。
「ちょっと古くないですか?」
「文句をお言いでないよ。このごろは新しく魔法使いになろうなんて子は滅多に居やしないんだから、杖職人もあまり作らないんだよ。なあに、古くたって力は衰えてないさ」
「杖職人がそんなんじゃ困るな……ステフ、こっちへ」
 ステファンは促されるまま、部屋の中央で杖を捧げ持つオーリと向かい合った。

 薄暗い部屋には高い位置にある窓から光が射して、床に描かれた円形の文様を照らしている。黒いローブを着た銀髪の魔法使いは光の中で厳かな声で告げた。
「ステファン・ペリエリ、今よりこの杖の主となって己が魔法を極めんことを……以下省略!」
 ひやりとした感触の白い杖をステファンの手に載せると、オーリはいつもの顔に戻って片目をつぶった。

――これが、初めての杖。
 確かに、魔女の言う通り目に見えない力を感じるが、オーリのおかげで緊張がほぐれたせいか、恐いとは思わない。ステファンは手の中で呼吸を始めたような白い杖をしっかりと握り締めた。
 パン、パン、パン、と乾いた拍手音が部屋に響く。
「戴杖式の真似ごとってわけかい。さしずめあたしは立会人ってことかね。おめでとう、おチビさ……いや、ステファン・ペリエリ。今日からはあんたもお仲間ってわけだ」
「あ、ありがとうございます」
 ステファンは頬を紅潮させながら、改めて魔女の顔を正面から見た。枯れ木色の顔は不気味ではあるが、眼鏡の奥の黄色い眼は意外と人が良さそうに見えた。
「ただし、それはあくまでも“仮の杖”なんだからね。しっかり精進して、なるべく早く本物の杖を持つことだ、自分の稼ぎでね。それと、ローブだ。だいたいあんたもね、オーリなんとかさん。杖を受け取りに来るつもりならこの子のローブも用意してやるもんだ、気の利かない師匠だよまったく」
 魔女の機関銃のような台詞が終わらないうちに、オーリは肩をすくめてステファンを連れ、部屋を後にした。
 明るい表通りに出て行く二人の年若い魔法使いを見送りながら、魔女はため息をついた。
「もう、時代は魔法を必要としてないんだ。あの子たちは、“最後の世代”になるかもしれないねえ……」

*  *  *

 四日後の聖花火祭の夜。
 魔法使いも、竜人も、保管庫の中で眠っていたファントムも、この日ばかりは身分を偽らず、羽目を外して大騒ぎをする。川を挟んで対岸の村と花火を飛ばし合い、来るべき冬の前に一年に一度の馬鹿騒ぎが許される祭りなのだ。
 ステファンは自分の杖を使って小さな花火を飛ばした。初めての杖を使って最初に覚えたのがこんな過激な遊びだなんて、とエレインは呆れ顔だったが、オーリはステファン以上にはしゃいで、川の対岸に向けてガンガン花火を飛ばしまくった。当然、こちらにも花火は飛んでくる。川があるお陰で火事にこそならないが、時折火の粉が顔に散ってくる。それでも毎年たいした怪我人も出ないというのだから驚きだ。
 祭りが最高に盛り上がってきた頃、凍りそうな夜空に大きな花火が綺麗な孤を描いて飛び始めた。ユーリアンたち火を操る魔法使いが飛ばしているのだ。
 歓声をあげながら、ステファンの目に父オスカーの顔がふと浮かぶ。
 二年前、父はこんな花火を見ながら、オーリの元へ訪ねて来たのだろうか。
 
 ねえお父さん、と心で呼びかけてみる。ぼくは自分の杖を手にしたよ、早く見せてあげたい、と。

 
にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ 
読んでいただいてありがとうございます。応援していただけると励みになります。

 翌六日、ステファンは十一歳の誕生日を迎えた。
 マーシャは居間のテーブルクロスを変えて花を生け、張り切って特大のケーキを焼き始めた。
「そんな大げさにしなくたっていいのに。なんか恥ずかしいよ」
 テーブルを端に寄せ、いつもとは違う様子に整えられた居間を見て、ステファンは戸惑った。
「大げさじゃないよ。今日はステフにとってもわたし達にとっても大事な日なんだ。ちょっと手伝ってくれ、屋根裏にあとニ脚、椅子があったはずだ」
「本当にお客を呼んじゃったの?」
「そうだよ、これも計画のうちさ。君の誕生日にかこつけて悪いかなとは思ったけど」
 屋根裏への梯子段を昇りながら、オーリは悪戯を企むような顔をしている。

 ステファンはここ数日のめまぐるしいドタバタを思い出していた。
 ヴィエークホールの美術展で評判を呼んだオーリの絵は結局、国内の資産家が良い値で買い取ることとなったのだが、そこからが大変だった。まず、美術展初日に名乗りをあげた例の外国人女性――ジゼル・ミルボーと名乗った――が、絵を諦める代わりにぜひエレインと直接会って話を聞きたいと熱心に言ってきたのだ。やがてこの女性だけでなく、新聞で竜人のことを知ったという多くの人が問い合わせてきた。
 オーリはこの事態を予測していたようで、彼らをステファンの誕生祝いの席に招待し、そこでエレインの話を披露すると言った。ただし条件付きで。
 条件とは、現在の竜人がどういう扱いを受けているかを知ってから来ること、そしてオーリの家の前に設けた“関門”を通り抜けられること、の二つだ。

「招待とか言いながらあの関門はないよ、先生。魔法で作った生垣の迷路でしょう? 無事に通り抜けられる人って居るのかな」
 誇りっぽい屋根裏部屋で椅子を引っ張り出しながら、ステファンは明り取りの小窓から庭を見た。この季節、ほとんどの植物が枯れた姿を晒している中で、力強い常緑樹の緑色を誇っているのがオーリの作った迷路だ。たいした距離でもなく、難しい道でもないはずだが、オーリが言うには、興味本位で竜人を見てやろう、などと思って来た者は間違いなく迷い、カラスに突かれて逃げ帰ることになるらしい。
「ま、難しいとは思うよ。そら、早速入り口でカラスの歓迎を受けてる奴が居る」
 オーリが指差す先に見えるのは、見覚えのある郵便配達夫の帽子だ。ステファンは大急ぎで屋根裏から下り、カラスにつつかれて悲鳴をあげている若者を助けに行った。
「シッシッ! だめだよ、この人は仕事で来たんだから」
 ステファンが杖を振ると、カラスたちは小馬鹿にしたように鳴き騒ぎながらも木の上に飛び去った。
「痛ててて、いい加減、担当を替えてもらいたいよなあ……ほらぼうず、お前さんに小包み。いいなぁお前、杖まで持っちゃってさ。毎日エレインさんの顔も見られるしさ。ちぇっ」
 そばかす顔の若い郵便配達夫はぶっきらぼうに茶色い包みを手渡すと、ため息をついて帰ろうとした。
「あのう!」
 ステファンは声を掛けずにはいられなかった。

*  *  *

「良くお似合いですよ、エレイン様」
 二階の部屋では、大きな鏡の前でエレインが重厚な衣裳をまとっていた。白地の袖の長い服には幾何学模様の縫い取り、同じ模様を織り込んだ前垂れ――竜人フィスス族の語り部が受け継ぐ式服だ。後ろに引きつめた赤い髪には極彩色の羽根飾り、耳に光っているのはいつかの黒い封印石ではなく、紅い石だ。
「またこの衣裳を着る機会があるなんて思わなかったわ」
 エレインは誇らしげに腕を伸ばして、袖口を飾る幾重もの幾何学模様を指差した。
「これは御祖母さまの縫ったところ、これはその前の語り部の。そしてあたしが縫った紋様はこれ。あまり上手じゃないけどね」
「立派ですよ、大事になさいまし。たとえ生まれた地を失ったとしても、失っちゃいけないものがございます。それは人間も竜人も同じこと。オーリ様もきっと力を貸してくださいますよ」
 手を取って祈るように言うマーシャの言葉に、エレインは微笑んだ。
「先のことは分からないけどね。でもありがと、マーシャ。“語り部エレイン”の務めを果たしてくるわ」
 部屋のドアを開けると、十一月の風が窓を揺する音が聞こえる。エレインは背筋を伸ばし、階段を下りていった。

「――でね、この黒いローブも今日届いたばかりで、ぼくまだ慣れてないんです。誕生日のお祝いにってお母さんが贈ってくれたんだけど。あれ? でもぼくのお母さんは魔法ぎらいなのに、どこでこれ買ったんだろ」
 ステファンの無邪気な言葉に客人たちはどっと笑った。
 赤々と燃える暖炉のせいばかりでなく、居間の中は暖かだ。子供も含めて十数人が集っている。結局はこれだけの人数がオーリの作った緑の迷路を無事に通り抜けたということだ。
 反面、カラスの手ひどい歓迎を受けた者たちもいた。カメラを持ったゴシップ誌の連中などはまず入り口で弾かれ、冷やかし半分で来た者などは迷路の中で堂々巡りをした挙句、疲れ果てて入り口に戻るはめになるのだ。
 最初に難なく迷路を通り抜けたのは、子供たちだった。続いて彼らの母親。新聞で初めて竜人と人間の過去を知り、心を痛めた人たち。例の外国人女性、ジゼル・ミルボーは本国で「竜人学」を研究しているとかで、子供のように歓声をあげながら迷路を楽しんで通り抜けてきた。
 ほとんどの人は、魔法使いの家ということで最初は緊張した顔をしていたが、オーリの気さくな人柄と薫り高いお茶を前にして、すぐに心がほぐれたようだ。ケーキを切り分けたあとは口々にステファンに向けておめでとうを言い、新米魔法使いのローブ姿に目を細めて談笑を始めた。
 
 ころあいを見て、オーリが立ち上がった。
「皆さん、竜人の話を心待ちにしていることでしょう。そろそろわたしの守護者を呼びます」
 オーリに招き入れられ、居間の戸口に現れた赤毛の娘を見て、客人からどよめき声があがった。
「おお、あの絵に描かれていたのはこの女性ですな?」
「なんて赤い髪……でもあの、こんな綺麗な娘さんが竜人? 信じられない」
 疑うというよりも戸惑っている客人たちに、エレインはニッと笑って長い袖をたくし上げてみせた。
 すんなりとした腕にくっきりと、竜人特有の青い紋様が見える。
「オオ! コレハ」
 ジゼルが立ち上がって近づいた。
「……間違イ無イ。刺青ナドデハアリマセン、竜人ダケガ持ツ紋様デス。アナタハフィスス族、デショウ?」
 感極まった様子のジゼルにエレインは快活に答えた。
「そうよ、あたしは竜人。フィスス族最後の生き残り、語り部のエレインというの。あたしの話を聞いてくれる?」

 
にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ 
読んでいただいてありがとうございます。応援していただけると励みになります。
 

 人の発する生の音声というものは、どうしてこんなに心を揺するのだろう。 
 
 エレインは穏やかに、けれどよどみの無い口調で竜人の創世譚から語り始めた。ステファンもこんな風にエレインから直接聞くのは初めてだ。彼女の言葉は淡々として、物語りとも歌ともとれる心地よい韻律で部屋を満たした。始めは物珍しさからクスクス笑っていた子どもたちも、やがて真剣な顔で彼女の言葉に聞き入るようになった。
 時折、暖炉の薪が微かな音を立ててはぜる。
 エレインが語り始める前、オーリは“語り部”の力について少し説明を加えた。人間にいろんな言語があるように、かつては竜人にも種族ごとに独自の言葉があったこと。けれど人間との戦いの歴史の中で、しだいにその言葉は薄れ、今は失われてしまったこと。エレインには過去の竜人たちの声を聞く能力があるが、今日はそれをそのまま伝えるのではなく、彼女自身の言葉で語るのだということ。
 それだけ言うと、オーリはエレインの肩に手を置いて、しっかりね、と言ったきりなぜかそのまま居間を出てしまった。
 ステファンは内心、気が気ではなかった。八月の終わりに、花崗岩に封じ込められた竜人の怨念に同調してしまったエレインの恐ろしい姿を覚えていたからだ。オーリが新しい封印の石を着けてあげたとはいえ、またあんな風になりはしないだろうか?
 エレインの語りは淡々としているが、時々声が震えることがある。人間への怒りを懸命に抑えているのだな、ということがステファンにも痛いほど解る。

 ―――エレインの一族が守ってきた美しく肥沃な大地。“新月の祝い”は、普段離れて暮らしている父親たちと母親たちが顔を合わせる唯一の日であると共に、魔力を忘れて“人”としての姿を取り戻す厳かで神聖な日のはずだった。けれど人間たちはその日を狙って攻め込んで来た。エレインが初めての伴侶を選ぶはずだった美しい日は、こうして一族最期の日となってしまった。父親たちは皆、その場で戦い果てた。エレインも共に戦うつもりでいたが、一番年若いエレインを逃すことで母たちは希望を繋ごうとした――

 やがて話がエレインの母たちの最期に及ぶと、それまで水の流れるようだった彼女の言葉が途切れはじめた。長い袖に隠れた拳がぎゅっと固められている。
 いたたまれなくなって、ステファンは思わずエレインの傍に行った。
 どうしよう。こんな時に何と言ってあげればいいのだろう?
 言葉が見つからずステファンはただ、固まった拳を両手で包んだ。と、もうひとつの小さな手が伸びて、エレインの手に重なった。一番最初に迷路を抜けて来た八歳くらいの女の子だ。
「だいじょうぶ? 竜人のおねえさん」
 女の子に続いて、もう一人。そしてまた一人。その場に居た子どもたち皆が集まってきて、心配そうにエレインの手を取ったり顔を覗き込んだりし始めた。
「……ありがとう。あたしは大丈夫。さ、話を続けるから座って」
 エレインは少し青ざめた顔で、それでも微笑みを浮かべて子どもたちを見回した。
「少し休憩を挟んではいかがです? ほら、この人もお茶を出すタイミングに困ってる」
 客人の紳士が立ち上がって居間のドアを開けた。
 ドアの向こうでは、マーシャがお茶をワゴンに乗せたまま、ハンカチで鼻を押さえて号泣しているところだった。

 それにしても、オーリは何をしているのだろう。こんな時にこそエレインの傍に居なくちゃ駄目じゃないか、とステファンは腹を立てながら、エレインが落ち着いたのを見計らって、二階へ上がってみた。
 案の定、アトリエに灯りが点っている。
「もう先生、何やって……!」
 言いかけた言葉を呑み込んで、ステファンは目を見開いた。
 部屋じゅうに紙が飛び交っている。オーリはその中で、じっと目を閉じて立ち尽くしていた。杖を自分の額に向けているのは、かつて迷子になったアガーシャを探した時に見せた、魔力を強めて集中するやり方だ。
 机の上の羽根ペンが十本とも、ものすごい勢いで走っている。ペン画を描いている者だけではない。普段は無い金属のペン先が付けられている数本が書いているのは、文字だ。インクをつける時間も惜しむように、交代でおびただしい文字を書き付けている。
 インク壷の隣には、蓄音機のホーンのような形の金属の花が震えている。そこから聞こえるのは居間で語っているエレインの声だ。
「……そうだ、語り続けるんだエレイン……怒りに負けるな……」
 オーリは目を閉じたまま、エレインがすぐ近くに居るようにつぶやいている。
 足元に落ちてきた一枚を手に取って、ステファンはオーリが何をしているのかを知った。エレインの語る言葉と記憶の光景をそのまま書き残しているのだ。しかも同時に、いつにも増して強い魔力を彼女に送りながら。オーリは時折足元をふらつかせ、それでも一心に集中していた。
 ステファンは急いで椅子を寄せ、オーリを座らせた。
「先生、何やってるんだよ、もう。いくら先生でも、こんな同時にいろんな魔法を使うなんて、無茶だ!」
「ステフか。時間が無いんだよ。竜人をこれ以上苦しめるような悪法が動き出す前に、エレインの言葉を世の中に伝えなきゃ。それには正確な記録が必要なんだ」
 オーリは目を開けないままでうめくように答えた。 
「それならいっそエレインの隣に居て、手を繋いであげてよ。エレイン、独りで可哀想だよ。力を送ってあげられるのは先生しかいないんでしょう」
「そんなことをすればお客たちは、わたしが魔法でエレインを操って語らせているように思うかも知れないよ。それに羽根ペンたちはこのアトリエ出ては仕事ができなくなるんだ。さあ、分かったら邪魔をしないでくれ!」
 額に汗を浮かべながら祈りにも似た姿でいるオーリと、さっき居間で懸命に怒りを抑えていたエレインの姿がダブって見える。何を言ってもオーリはこの魔法を止めそうにない。ステファンは黙って床に散らばった紙を拾い集め、微動だにしないオーリを残してそっとアトリエを出た。

 夜になると、エレインはさすがに疲れたのか早々と天井の梁に上り、日没後の小鳥のように眠りについてしまった。けれどオーリにはまだしなければいけない仕事があった。机の隅で埃を被っていた古いタイプライターを持ち出し、エレインを起こさないように“無音”の魔法を掛けると、昼間羽根ペンたちが書き取ったエレインの物語を清書しはじめたのだ。
 けれどオーリはどうやらタイピングが苦手のようだった。金属のアームが何度も絡まり、焦る割りには一向に進まない。見かねたステファンはオーリをタイプライターの前から押し出した。
「だめだよ先生、時間が無いんでしょう。ぼくにやらせて」
「何だって? 君、できるの?」
「結構得意なんだ。お父さんの仕事の手伝いで覚えたから」
 ステファンは紙を二重にして挟み直すと、猛烈な勢いでキーを打ち始めた。ピュウ、と口笛を吹いて、オーリは目を見張った。
「驚いた、ガーリャが目覚めて働いてる!」
「ガーリャって、これに棲みついてるやつ? アガーシャみたいに」
 キーを打つ手を止めないまま、ステファンは問うた。
「そうだよ、これをトーニャから譲り受けた時からまともに働いたことが無かったんだが。ありがたい、その調子で頑張ってくれ、ステフ。わたしは挿絵を仕上げるよ」
  こんなに急ぎの仕事なんてどうしたんだろう、と思いながらもステファンは自分の力が初めてオーリの役に立っているとおもうと誇らしさでいっぱいになった。
 結局、使い魔のトラフズクが窓に降り立つ頃には、全ての清書が終わり、オーリは拳を宙に突き上げて快哉を叫んだ。
「オスカー、感謝だ! わたしに弟子ばかりでなく有能な助手まで遣わしてくれた!」
「しーっ、先生、エレインが起きちゃうってば!」
 魔法使いたちの騒ぎを尻目に、トラフズクは冷静な顔で通信筒を背負い、
「滅び行く者、声をあげよ、ってことですな……」
 とつぶやくと一礼して飛び立っていった。

 エレインの話は評判を呼んだようだ。もっと話を聞かせて欲しい、という声が引きもきらず、オーリは次の週からも何度か客を招いた。エレインの語りにはますます熱がこもったが、最初の日のように怒りで声を詰まらせるようなことは無くなった。話を聞き終えた人びとは彼女の手を取って、今まで竜人のことを誤解していた、済まなかった、と涙を浮かべながらしばらく時を忘れて話し込むのが常だった。中にはジゼル・ミラボーのように何度も訪れる人も居り、いつのまにかエレインには人間の友人が何人もできていた。
 相変わらず“関門”の迷路で弾かれるゴシップ記者たちが腹立ち紛れに酷い記事を書きたてたが、果たしてそれを真に受ける者が居たかどうか。“竜人とのお茶会”に感動した人の話は耳から耳へと伝わり、迷路を通り抜けられることがひとつの名誉のようにさえ語られるようになっていった。

 そんなある日、ステファンは話を聞き終えた客の中でひときわ派手に号泣する人を見た。制服を着ていなかったので最初は分からなかったが、そばかすだらけの童顔には見覚えがある。いつも来る郵便配達の若者だ。ステファンに声を掛けられてから何度か迷路に挑んだが、結局今日まで来られなかった、と鼻を真っ赤にしながら言った。
「おれ、知らなかった。エレインさんがあんな辛い思いしてきたなんて。竜人なんか自分には関係ないって思ってたもんなあ。お前やオーリ先生は知ってたんだよな、敵わないよなあ……」
 若者はすっかりしおれてしまった花束をテーブルに置くと、帰ったら郵便局長にもこの話をする、と約束して鼻をすすりながら帰っていった。
 
 客が全て帰っても、迷路の入り口でカラスが騒いでいる。オーリは庭に出て指を弾き、カラスを遠ざけてから呆れたように声をかけた。
「あんたも懲りないね。いいかげん、仕事を離れて一人の人間として来たらどうです? そうすれば通り抜けられるかも知れないのに」
「ああ、長年染み付いたひねくれ根性が邪魔してね。いや、今日はそんなことで来たんじゃないんだ」
 帽子をさんざんに破られた雑誌記者は冷や汗をぬぐいながらオーリに向き直った。
「いいニュースだよ、ガルバイヤンさん。例の髭男、カニス卿が失脚したらしい」
「カニスがどうしたって?」
 不愉快な人物の名を聞いてオーリは眉を寄せた。
「あの髭男、前からうさん臭い奴だと思って調べてたんだけどね。カニスってのは偽名だ。あいつは魔法で他人の記憶を奪って、貴族に成りすましていたらしい。とんだペテン野郎さ。最近になって記憶を取り戻したっていう貴族から訴えられて、今大変なんだと。傑作だろう?」
「あの犬男爵め、そんなさもしい事やってたのか……で、それをわたしに言ってどうしようっていうんです」
「どうもしないさ。ただ、あんたに言われてから俺も改めて竜人の話を聞いてみることにしてね。とある少年からカニスとあんたの因縁を聞いたんで、伝えておきたくなったのさ。仕事抜きでね」
 記者は照れ隠しのように、破れたハンチング帽子を深く被った。
「その少年って、カニスに売られたという竜人の? あの子は今どこに?」
「船に乗ってるよ。港の人足として働いていたところを外国船の船長に気に入られてね。ちゃんとした契約の元だから管理区に送られる心配はないよ。今頃はきっと、東回りで外洋に向かっているだろう。銀髪の魔法使いに会ったらよろしく伝えてくれって頼まれたんだ。竜人の味方をする人間も居ると知って、生きる希望が湧いたってね」
 そこまで言うと、記者は腕時計を見て慌てて道端の車にカメラを放り込んだ。
「ちぇ、時間切れだ。今日も記事にならなかった。せめて赤毛美人の写真でも撮れたらなあ」
 冗談まじりに言う記者に、オーリは真顔で答えた。
「あんたは竜人の話を聞く耳を持っているんじゃないか。もうくだらないゴシップ記事なんて止めたらどうです? お宅の雑誌が事実を曲げずに書くようになったら、いつでも喜んで招待しますよ」
 記者は答えず、苦笑いを残して走り去った。

 
にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ 
読んでいただいてありがとうございます。応援していただけると励みになります。
 


 変化は、静かに、確実に起こりつつあった。
 エレインの話が評判を呼ぶにつれ、新聞や雑誌に竜人の登場する記事が多くなってきた。これまで語る言葉を持たなかった竜人たちが声をあげるようになったのか。それとも人間のほうが耳を傾けるようになってきたのか。
 どちらにせよエレインは、語り部として言葉が尽きることを知らないように何度も語り続け、その記録を残すためにオーリとステファンの作業は黙々と続けられていった。
 
 そして十二月の声を聞く頃。
 今にも雪が舞いそうな重い雲の下を飛んで、一羽の黒鷲が森の家に近づいてきた。その姿を見るや、オーリは肝を潰したように庭に飛び出した。
「トーニャ! そんなお腹で飛んでくるなよ!」
 冬の庭に降り立った黒鷲は、こぼれそうな大きなお腹をローブに包んだ魔女の姿に変わる。
「あーらご心配なく。私じゃなくてベビーが飛びたがってるんだから。それにこんな面白い仕事、他の魔女になんて任せてたまるもんですか」
 古風な黒い帽子を外しながら、魔女は思惑ありげな笑顔を見せた。

 マーシャが暖炉に足した薪が勢い良く燃える。トーニャは母国流にジャムを添えたお茶を楽しみつつ、ふう、とお腹をさすった。
「面白いかどうか知らないけどね、 仕事好きもほどほどにしろよ。この寒いのに飛んだりしてベビーに何かあったらユーリアンに何て言えばいいんだ」
 オーリは困り顔で勝気な従姉に苦言を言った。
「それよりまずお礼を言わせて、オーリ。あなたが送ってよこしたエレインの話は好評よ。魔女出版としても初めて一般向けに出した隔週誌の看板記事だから、力を入れてるわ。ただ……」
 トーニャはすまなそうに細い眉を寄せた。
「竜人の話を本にするのはやっぱり無理。それでなくても大戦後の紙不足が尾を引いてるから、今はどこの社も大変なの。有名な作品だって一巻分を何巻にも分割して出さなきゃいけないくらいよ」
「わかってるよ。記事にしてくれただけでもありがたいと思ってる。無理言って済まなかった、トーニャ」
 頭を下げるオーリを見ながら、じゃあここまでなのか、とステファンは無念な思いでうつむいた。
 エレインの話を記録して挿絵をつけ、竜人の思いを世に訴える―――オーリの考えた次の作戦だ。それが果たしてどれほどの効果があるのか知らないが、記事が評判を呼べばもっと多くの人が竜人の問題に目を向けてくれるかもしれない。竜人に対する扱いが厳しくなるのは年が明けてからだから、時間との競争になるが、やってみる価値はある。そんな話をここ最近ずっと三人でしてきた。そして魔女出版の協力のもと、エレインの話を記事にするところまでは漕ぎ着けたのだ。だが読み捨ての雑誌に載っただけではすぐに人びとから忘れ去られるだろう。他に打つ手は無いだろうか?

 無念そうな魔法使いたちを尻目に、トーニャがキラッと目を輝かせてエレインに向き直った。
「それより面白い話があるの。エレイン、“お茶会”で話した内容を、もっと多くの人間に聞かせてみない?」
 オーリは眉をしかめてカップを置いた。
「トーニャ、何を考えてる。興味本位の連中の中に我が守護者を引っ張り出すのは御免だぞ」
「ばかね、ラジオの話よ」
「ラジオだって!」
 とんでもない、という風に首を振るオーリには構わず、トーニャは隣に座るエレインの肩に手を乗せた。
「ラジオは知ってるわね? あんな風に、遠く離れた大勢の人間たちに話を聞かせるのよ。あなたならできるわ」
「馬鹿なことを言わないでくれ。何のためにわざわざ迷路まで作ってこの家で話すことにこだわってると思うんだ」
 オーリは身を乗り出して険しい目をした。負けじとトーニャが睨み返す。
「あなたは甘いの、オーリ。本当に訴えたいことがあるなら、安全な場所に篭って相手を選んでたんじゃ駄目。相手が聞く耳を持とうが持つまいがなるべく多くの人に訴えなきゃ」
「だからって、エレインを都会のラジオ局まで連れて行けっていうのか。ああ、邪(よこしま)な連中がさぞ喜ぶだろうさ」
 たまりかねたようにオーリは立ち上がってエレインを引き寄せた。
「人の話は最後まで聞きなさい! それに私はエレインと仕事の話をしてるの、ヘボ画伯とじゃないわ!」
 ヘボ画伯、と言われたオーリは顔を赤くして、言葉もなく口をパクパクとした。その腕をすり抜けてエレインがトーニャの顔をのぞきこむ。
「本当に、大勢の人間相手に語ることができるの?」
「そうよ。ただし、あなたが出向くのはリスクが大きすぎるわ。誰かさんの絵のおかげで顔が知られちゃったし、最近の“竜人ブーム”を面白く思わない連中も居るから。でも聞いて。何人かの魔女の力を借りればここから“声送り”という魔法を使うことができるの」
 トーニャの話はこうだ。
 ラジオ局でも早くから、評判の竜人を呼んで番組で語らせたら、という話が出ていた。しかしどこで横槍が入るのか、なかなか許可が下りない。そこで表向きは地味な“朗読番組”ということにして、魔女の力を借りてエレインの声だけを流す。後でとがめられたとしても、ラジオ局の人間が録音機材を持って動いたわけではなし、竜人本人が来たわけでなし、証拠は残らない。全て、魔女側からではなくラジオ局側から持ちかけてきた話だそうだ。
「従姉どの、そりゃかなり無茶というか……大体そんなことに協力する魔女が居るのか?」
「居るわよ。魔女を侮らないでくれる?」
 トーニャが真剣な顔を向けた。
「かつて魔法使いたちが“竜人狩り”を始めた頃、一番近くにいながら愚かな行為を止められなかった、と悔いている魔女は多いわ。直接手を下す事こそしなかったけど、傍観者を決め込んでた自分達も魔法使いと同罪だって。ね、エレイン。私たち魔女にも罪滅ぼしの機会を与えてはくれないかしら」
 困惑したような緑色の瞳の上で、赤銅色の睫毛が何度か上下する。
「なんかよくわからないけどさ。あたしは乞われれば誰にだって語って聞かせるわよ。だってそれが語り部の使命だもの。そうでしょ?」
「その通りでございますよ」
 さっきから黙って聞いていたマーシャが口を挟んだ。
「思うとおりになさいまし、エレイン様。ほんの少しでも望みがあるなら、そちらに賭けるべきです。このマーシャめも及ばずながら、放送の日には農場のおかみさんたちに声を掛けてラジオを聞くように言って回りますとも。よろしいですね、オーリ様?」
 マーシャの声には有無を言わさぬ響きがある。オーリは観念したように天井を仰いだ。

 果たして、放送当日には狭い家に魔女が続々と集まってきた。皆、鳥に姿を変えたり“遂道”を通ってきたりした、年齢も出身もまちまちの魔女たちだ。赤毛の竜人を見るなり、涙ぐんで詫びるようにハグをしに来る者あり、ただ手を取って深々と頭を下げる者もあり、そして誰もが口にする言葉は、
「生き残った娘が居てくれたなんて」
 という喜びの言葉だった。
 オーリは壁際に立つ大柄な魔女の姿を見て驚いた。
「伯母上、あなたもですか?」
「私は監督役です。この者たちがしっかり役目を果たすように見届けねばなりませんからね。それに……」
 ガートルード伯母は水色の目をエレインに向けた。
「フィスス族の娘。先代の語り部のことを、私はよく覚えていますよ。今日はあなたの仕事ぶりを見せてもらいに来ました」
「おばあ様のことを知ってるの?」
 白い式服を着たエレインは顔を輝かせた。
「ええ、とてもね……さあ、時間がありません。こちらへ」
 部屋の床に真新しい紋様が描かれている。エレインはその中央に立ち、オーリがぴったりと寄り添って立った。黒装束の魔女達が周りを取り囲む。
「向こうの手はずは整っているわね?」
「大丈夫です。トーニャが送り込んだ魔力の受け手がラジオ局に居ますから」
 よろしい、とうなずいて、魔女ガートルードは確かめるように言った。
「いいことオーレグ、この娘の言葉を最後まで届けられるかどうかはお前にかかっているんですからね。心をしっかり持ちなさい」
「言われるまでもありませんよ、伯母上。何の為の契約だと思ってるんです? 我が守護者に力を送るのはわたしの役目ですから」
 自信ありげに不遜とも思える表情をするオーリにちらと目をやって、ガートルードはおもむろに手を挙げた。
 魔女たちの輪が手を繋ぎ、紋様が光り始めると、それを合図にエレインが語り始める。長い袖の下で繋いだオーリの手に力がこもった。

 その日、夕食後にいつもの朗読番組を聞こうとしていた人びとは、いつもの番組とは違うことに気付いた。聞きなれない澄んだ声と、噂でしか知らなかった竜人の話。詠うような声に聞き入る人びとの驚きが、静かな感嘆とすすり泣きに変わってゆくのに、あまり時間はかからなかった。

にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ 
読んでいただいてありがとうございます。応援していただけると励みになります。

 翌日から巷は竜人の話で持ちきりになった。
 
 朗読番組の代わりに突然流された竜人の物語。
 あれは作り話なのか、実話なのか。それともいつもの番組の中での“劇中劇”なのか。
 昔魔法使いに与して竜人狩りを薦めた連中は大いに慌てた。ラジオ局に抗議し、竜人が迫害された話などでたらめだ、でっちあげだと躍起になって否定する者も居たが、それは局側の人間をにんまりさせるだけだった。良くも悪くも反響が大きいということは、それだけ多くの人間があの番組を聴いたということだ。
「文句言いたい奴は言えばいいさ。絶対、ムダにはしないからな」
 録音技師の男は、竜人の声を納めたテープの大きなリールを見つめて、誰に言うでもなくつぶやいた。
 最初、番組が無断で差し替えられたことにカンカンになっていた出資者も、あまりの反響の大きさに態度を変えざるを得なくなった。“もっと竜人の話を聴きたい”という街の声が日に日に高まってきたからだ。
 ラジオ局で導入されたばかりの新しい録音機械はエレインの声を鮮明なままに何度も再放送し、他局も争ってあちこちで埋もれていた竜人の話を取材するようになった。

 そんな日々の中、ユーリアンが一通の電報を握り締めて飛び込んできた。
「やったぞ! オーリ、竜人たちは救われるかも知れない!」
 オーリはユーリアンから受け取った紙片に目を落とした。悪名高い“竜人管理法”が凍結されることになったことを示す文面が綴られている。
「実は“管理法”を潰す動きはお偉方の間でも前からあったんだってさ。ただ、潰すタイミングが問題だった。雑誌の記事やラジオ放送のお陰で世間が騒ぎ出したから、勢いに乗って一気に追い込んだようだ。情報源は確かだぜ。魔女出版宛に届いたものをトーニャが複写してきたんだ」
「ふうん、じゃ我々は乗せられたのか、あるいは逆かな。それにしても急いだもんだ。魔女たちが、国のお偉いさんを脅かしたのかな」
 冗談を言う口ぶりではあるが、オーリの笑顔はどことなく硬い。
「なんだ、もっと喜べよ。エレインはこれで晴れて自由に……おい?」
 驚くユーリアンの目の前で、エレインが悔しそうに両眼から涙を溢れさせた。
「あたし、喜べない」
 ギリリと音を立てて、椅子の背に爪が食い込む。
「だってそのためにステファンは……」
 オーリは爆発しそうなエレインをなだめるように抱き寄せて、同じく沈痛な表情をした。
「あの子、そんなに悪いのか?」
「ああ。ラジオ局から帰ってきて、ずっとだ。ガートルード伯母があらゆる術を使って回復させようとしているけど、意識が戻らない――戻らないんだ!」

 エレインの声が電波に乗ったその日、ステファンは首都に居た。
 魔女たちの“声送り”を成功させるには、ラジオ局側にも二人の魔力を持つ者が必要だと聞いていた。声を受け取るいわば“受信機”役の魔女、そしてもう一人、語り手であるエレインの声を良く知る者。オーリは当然、エレインの傍に居なくてはいけないから、後者はステファンが引き受けることになっていたのだ。難しい仕事ではない、魔女と手を繋いでいればいいと聞いていた。ただ心を空にして、エレインの声を自分の喉に宿らせる――魔女が受信機ならステファンはスピーカーというところか。声変わり前の十一歳の少年には、適役のようにも思えた。
 初めて見る都会のラジオ局で、物珍しさに目を輝かせながら、ステファンはオーリから借りたローブにしっかりとくるまった。電気系統に影響を与えないように魔力を抑えるには、自分の小さなローブでは間に合わないからだ。前日のテストで“声送り”を初めて見た、と興奮気味に言う局員たちにキャンディなどもらいながら、どきどきしながら魔女の到着を待った。
 ところがアクシデントが起きた。
 首都の空気はあまりにも汚かったのだ。十二月に入ってから急に冷え込んだせいで、家々のストーブには大量の石炭がくべられ、その煤が吐き出されたために街の上空は一寸先も見えないほどに濃いスモッグが満ちていた。年老いた魔女はその中を懸命に飛んで来たものの、ラジオ局に辿り着く頃には消耗してもう呼吸さえおぼつかず、とても“受信機”の役は務まりそうにない状態になってしまっていた。
 放送の時間は迫っていた。“中止”の声が囁かれるのを聞いたステファンは、夢中で叫んでいた。
「止めちゃだめだ! ぼくが二人分の働きをします。魔女さん、声の受け取り方を教えて!」

 オーリが小さな弟子のあまりにも無謀な行動を知ったのは、放送終了後のことだった。
 ステファンを迎えに行ったガートルードは、おいおいと泣き崩れる魔女の横で魂が抜けたように転がる少年の姿を見て、全てを察した。
 そして一週間。治癒魔法に長けた魔女が入れ替わり立ち代り、ステファンの治療にあたってきたが、体力も魔力も充分に回復したはずなのになぜか意識だけが戻って来ないのだ。
「ステフ、ステファン」
 小さな額に自分の額を押し付けて同調魔法の姿勢をとりながら、もう何度呼びかけたか知れない名前をオーリが呼び続けていた頃、階段下から甲高い声が響いてきた。
「どいて、どきなさい! 母親のあたくしが会いにきたのです、治療中だろうが知るものですか。息子に会わせなさい!」
 勢い良く開いたドアの内側で一瞬立ち止まった小柄な婦人は、魔女達を押しのけてベッド脇に駆け寄り、ひざまずいていたオーリを突き飛ばすようにして息子に取りすがった。
「ステファン!」
 強引に魔法を中断されたオーリが眩暈してうめくのには構わず、ミレイユは両手で息子の頬を挟んで呼びかけた。
「聞こえて? 聞こえるわね、お母さんよ! 目を開けてちょうだい!」

 
 灰色の濃い霧の中を、ステファンは歩いていた。
 前へ? 後ろへ? 右へ? 左へ?
 足元さえ不確かなこの感覚は、何かに似ている。
「参ったなあ。また迷子になっちゃった」
 立ち止まり、周囲を見渡してため息をつく。ため息は透明なつむじ風となり、目の前の霧を一瞬、晴らした。
「あれは……?」
 霧の向こうに見晴るかす、緑の渓谷。その中を駆けてゆく赤い髪。
 けれどそれらはすぐにまた、濃い霧に隠されてしまった。ステファンはしばらく茫然としたが、すぐに口元に笑いを浮かべた。
「隠してもだめだよ。ぼくにはちゃーんと見えるんだ」
 そして目を閉じ、意識を集中する。頬に風を感じて再び目を開くと、渓谷の様子は一変していた。
 あちこちで上がる黒煙。眩い火花と、剣のぶつかり合う音。怒号。悲鳴。ステファンは思わず叫んだ。
「やめて! 竜人は悪くないのに!」
 知っている。これはオーリの絵で見た、エレインの話で聞いた、フィスス族最期の日の光景だ。ステファンは身震いし、走り出していた。
「逃げて! 魔法使いは残酷なんだ、みんな逃げてってば!」
 そう、知っている。この後、エレインの父も母も、誇り高き仲間も皆、全滅することになるのだ。けれどそんなことを目の前で見たくない。一人でも、二人でも生き残っていて欲しい。でないと、エレインは一人ぼっちになってしまう。
「エレ……」
 黒い煙にむせた。呼吸ができない。すぐ足元で火花が飛び散った。
「危ない!」
 突然誰かに腕を引っ張られて、ステファンは再び霧の中に戻った。
 咳き込んで呼吸を取り戻しながら、どうして、と抗議しようと顔を上げる。
「過去は、取り消せないんだ」
 霧の向こうで静かな声が語りかけた。どこかで聞いた声だ。
「どんな許せない過去でもだ。もっと早くに気付くべきだった。答えは現在と、未来にしか探せない」
 霧をかき分けて、その人が歩み寄る。次第にはっきりと顔が見えるようになると、見覚えのある鳶色の目がまじまじとこちらを見ているのに気付く。
「お前……ステファン? ステファンなのか?」
 間近で自分の名を呼んだ人の顔を見て、ステファンは驚き、息を飲んだ。そして次の瞬間には相手の名を呼ぶよりも先に、飛び上がって首に抱きついていた。
「お父さん――お父さん!」
「ステファン!」
 紛れもない、これは父だ。父のにおい、父の声、父の体温。なにもかも、二年間頭の中で忘れないように思い出していた、そのままの父だ。
「信じられない。どうやってここへ? 一人で来たのかい?」
「うん。あのね、ぼく“声送り”って魔法のお手伝いをしたんだ。そしたら……」
「声送りだって? そんな難しい魔法を手伝ったのか。なんて無茶をするんだ、お前は」
 オスカーは言いながらも、誇らしそうに息子の頭をくしゃくしゃにした。
 けれど懐かしい大きな腕がしっかりと自分を包んだのを感じた途端、ステファンは猛烈にわけのわからない怒りを感じて、オスカーの肩を、頭を、小さな拳で叩き始めた。
「なんで! どうして出てっちゃったんだよ! ぼくの誕生日だったのに! 何にも言ってくれないでさ! ひどいよ、ずるいよ!」
「ステファン、そうだったね」
「お、お……」
 涙と一緒に押さえようとしても溢れてくるものを飲み下し、ステファンはそれまで一度も口にした事のない言葉を思いっきり吐き出した。
「お父さんの、ばーーーっかやろおおおう!」
 抱きしめる父の腕に、力がこもる。ステファンはなおも泣き喚いた。
「お母さんもだあっ! いつもいつも怒ってばかりで、ぼくの言うことなんてちっとも聞いてくれなくて! もういい、ぼくは魔法を覚えたら悪い子になってやるんだ! エレインに、うんと悪い言葉を教わってやる。お、お母さんの、ば……」
 大きな手が口を塞いで、ステファンにそれ以上の悪口は言わせなかった。
「お前は、悪い子になんかならないよ。前に言っただろう、この世に生まれてきてくれただけで、もう既に“いい子”なんだって」
 父の目が笑っている。ステファンはしゃくりあげながら、自分と同じ色の目を見つめ返した。
「ステファン、本当はお父さん達のことを、ずっと怒ってたんだね? 怒ってたのに、誰にも言えなかったんだね?」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、このまま父の手に噛み付いてやろうかと思ったがそれはできず、ステファンはひと言だけ返した。
「――うん」
 オスカーはもう一度しっかり抱きしめてくれた。ごめんな、という声が聞こえたようにも思ったが、もうそれはどうでも良かった。ステファンは父の肩にしばらく顔を埋めてから、腕を突っ張って地面に飛び降りた。
「でも、ぼくはもう十一歳なんだよ。自分の杖だって持たせてもらったんだ。だから――」
「だから?」
「だから。お父さんのこと、許してあげる」
 自分でもひどく幼稚な言い方をしてしまったと思い、急にステファンは恥ずかしくなって顔を背けた。
「そうか、許してくれるのか。お母さんのことは?」
「お母さんは……」
 言いかけて、ステファンはふと誰かに呼ばれたような気がして振り向いた。
 呼んでいる。オーリが、エレインが、マーシャが。いやもっと多くの声が、懸命に自分を呼んでいる。そして……
「お母さんの声だ」
 ステファンの耳に、はっきりとそれは届いた。温かな力が、胸の中に満ちてきた。
「帰ろう、お父さん。お母さんが呼んでる。早く帰らないと、お父さんも叱られるよ」
「叱られるのに、お前はお母さんを許すのかい?」
「だってさ。お母さんは、お母さんだもの」
 ステファンは半分照れくさそうに答えた。オスカーが笑ってうなずく。
「先に帰りなさい、声がするほうへ。それが出口だ」
「お父さんは?」
「別の出口から帰るよ。なに、すぐに追いつくから」
 手を振るオスカーにきっとだよ、と念を押して、ステファンは自分を呼ぶ声に向かって駆け出した。

「どうして目を開けてくれないの……」
 何度呼びかけても反応のない息子の手を握り締めて、ミレイユはさめざめと泣いていた。胸の上に顔を伏せ、何かを詫びるように。けれどひとしきり泣いた後、ミレイユは顔を上げた。そして涙をぬぐうと、やおら立ち上がり、腹に力を込めて声を放った。
「ステファン・ペリエリ! 何時までそうしているつもりです、 いいかげんに起きなさい、遅刻しますよ!」
「はいっ!」
 突然はっきりとした返事を返し、鳶色の目が開いた。
 おおお、と声をあげて魔女たちがざわめく。
「ス、ステファン?」
「ステフ、目が覚めたの?」
「坊ちゃん!」
 拍手と歓声が起こる中、オーリとマーシャが両側から駆け寄った。
 ミレイユはその場で放心したように座り込んだ。自分から声を掛けたにもかかわらず、信じられない、とでも言うように。エレインが気付いて、そっと抱え上げ、ステファンの脇に座らせる。
「お、母、さん」
 一音ずつ確かめるように言いながら、ステファンは手を伸ばして母の顔に触れた。
「この子は……まったくもう、この子は十一にもなって! 相変わらず寝起きが悪いんだから!」
 灰色とも緑色ともつかぬミレイユの目から、何粒もの涙がステファンの顔に降る。ああ、お母さんはこんな目の色をしていたんだな、とぼんやり考えながら、ステファンは妙に心地よい思いで母を見つめた。

 突然、ドンドンドンと何かをノックするような音と共に、くぐもった人の声がした。一同は顔を見合わせ、声を辿って視線を巡らす。オーリはベッドの下を覗き込んだ。
「こいつから聞こえてるんだ」
 オーリが引っ張り出したのは、古い革製のトランクだった。ステファンが家を出る時にどうしても持って行くと言って譲らなかった、オスカー愛用のものだ。
「お父さん……」
 ステファンのつぶやく声に何かを察したように、オーリが指を弾いた。火花と共に革ベルトが一斉に外れ、トランクの蓋が勢い良く開く。と、中から何者かの上半身が飛び出してきた。
「オスカー!」
 トランクの中は“保管庫”の本と同じように広い空間がひろがっている。オーリとユーリアンが左右から腕を引っ張ってオスカーの身体がすっかり出てしまうと、空間は音もなく閉じてただのトランクに戻った。
「やあ、オーリにユーリアン。ここは? 今日は何日だ?」
「十二月十二日……」
 茫然としたままでオーリが答える。オスカーはぐるっと部屋を見回し、ステファンの枕元にある小さな置時計に目を留めた。
「十二時十二分。ぴったり、計算どおりだ。やあ、ミレイユ」
「この……!」
 オーリがオスカーに掴みかかった。そのまま殴りつけるのではと肝を冷やしたマーシャが止めようとしたが、彼はそのままステファンの隣にオスカーを突き飛ばした。
「何が“やあ”だ、なにを呑気に! さあ謝れオスカー、ステファンとミレイユに。どういうわけだか全部説明してもらうぞ!」
「もう、謝ってもらったよ」
 か細い声がして、ステファンの顔が横を向いた。自分の隣に落ちてきたオスカーに手を伸ばし、これ以上の幸せは無い、というような笑顔を見せる。
「お帰り、お父さん」
「ただいま、ステファン」
 父子は笑い合い、再びしっかりと抱き合った。

「まあ、なんてこと!」
 ミレイユのヒステリックな声が部屋に響いた。
「オスカー、あなたという人はどうしていつもいつも! 出かける時も突然なら帰るのも突然なんだから! 第一ここはよそ様のお家なのよ、カバンの中から入ってくる人が居ますか! お玄関から入っていらっしゃい!」
 機関銃のような声に皆が呆気に取られている中オスカーは、
「わかった!」
 と答えて弾かれたように廊下に飛び出した。玄関はこっちだな、という声と階段を駆け下りる音が聞こえてくる。
「お母さんったら……」
 困惑するステファンをよそに、細い眉を吊り上げたままのミレイユは足音も高く玄関に向かう。マーシャが慌てて後を追った。
 玄関ベルが鳴る。マーシャが扉を開けると、笑いそうな、泣きそうな顔のオスカーが立っていた。
「突然お邪魔してすみません。こちらにミレイユというご婦人はいらっしゃいませんか?」
 マーシャが答える前に、ずい、とミレイユが進み出た。
「あたくしがミレイユですわ。ミレイユ・リーズ」
 皮肉たっぷりに旧姓を名乗ったミレイユの手をオスカーの両手がしっかりと握った。
「オスカー・ペリエリと申します。もう一度どうしても貴女にお会いしたくて、はるばる戻って参りました」
 鳶色の目に強い光りが踊っている。見上げるミレイユは硬い表情を崩さないまま、乙女のように頬を染めた。
「まあ……まあ、お二人とも。さあどうぞお家の中へ。暖炉の前でゆっくりとお話くださいまし」
 マーシャが目尻の涙をぬぐいながら笑って、二人を居間に導こうとした。オスカーが鼻をひくつかせて顔を輝かせる。
「スコーンの匂いだ。ああ、懐かしい! この二年間、何かを食べるってことを忘れていたからなあ」
「さようでございますか。ええ、もうすぐ焼きあがるところですよ。二階の皆さんもお呼びしてお茶にしましょうかねえ」
「では、あたくしもお手伝いいたしますわ」
 ミレイユはオスカーの手を振り払い、背中を向けたまま小さな声で付け足した。
「オスカーのお茶の好みは、あたくしが一番知っておりますから」

 暖炉の火が勢い良く燃え上がった。
 二階に居た魔女たち、エレイン、ユーリアンがお茶の席に着く。そしてステファンは毛布にくるまれたまま、オーリに抱えられて下りてきた。小さい子みたいで嫌だ、と彼は駄々をこねたが、一人で歩くほどにはまだ回復していない、とどうしてもオーリが許してくれなかったのだ。
 お茶をミレイユに任せて、マーシャはスコーンの具合を見た。いい焼け具合だが、もう一呼吸置かなくては。美味しいスコーンを食べるには、急いではいけない。ものごとには必要な手順と、掛けねばいけない時間があるものだ。
 そう、時間ならこれからいくらでもある。じっくり、じっくり。
 やがてオーブンから取り出されたキツネ色のスコーンは、美味しそうなヒビ割れと共に甘い匂いを放つだろう。

にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ 
読んでいただいてありがとうございます。応援していただけると励みになります。

 誰もが、聞きたいこと、話したいことを山ほど抱えていた。
 そして誰もが我先にしゃべろうとしたので居間の中は騒然とし、ガートルードは何度も立ち上がり、厳しい声で場を収めねばならなかった。
 オスカーがどこへ姿を消していたのか、から始まって、忘却の辞書のこと、あの気の毒なガーゴイルのこと、七月以来ステファンが遭遇したさまざまなこと。特にここ最近のオーリとステファンの奮闘ぶり、極めつけは“声送り”でステファンがやってみせた、無謀っぷり。
 話の順番も何もあるものか、と皆が競ってしゃべるさまを、ミレイユはほとんど口を開けたままで聞いていた。無理もない。これまで魔法など頭から否定してきたというのに、この場に飛び交う言葉のほとんどは彼女の誇る“常識”の範疇を超えているのだから。 
 そんな母を半ば気の毒に思いながらも、ステファンは幸福だった。
 暖かい部屋。薫り高いお茶とマーシャの焼きたてスコーンにたっぷりのジャム。 
 オスカーに呆れながらも安心したように顔を見交わす、オーリとエレイン。二人を冷やかすユーリアン。ガートルードはじめ魔女達は、相変わらず威厳を保っているものの、彼女らが見かけよりずっと優しくて人が良いことにも気付いた。
 そしてなによりも、今は傍に両親が居る。
 ソファの右側に母が、左には父が。真ん中に座るステファンは満ち足りた顔で代わる代わる二人を見上げた。
 そう、満ち足りている。けれど心の隅にほんの一点、まだ忘れ物をしているような気がしてならない。それが何だか分からず、ステファンは毛布からはみ出した足をぶらぶらさせた。 

「みんなちょっと待った! じゃあ、ひとつずつ疑問点を明らかにしていこうぜ。吊るし上げにされる覚悟はできてるか? オスカー」
 悪童のような顔で笑うユーリアンにオスカーは苦笑してうなずいた。
「まずは君自身のことだ。これはオーリが言ってた事なんだが。オスカー、君には過去へ自由に旅をする能力があるんじゃないかってね。それは本当か?」
「本当だ」
「証明できるか?」
「できないね」
 あっさりと降参の仕草をして、オスカーは手を広げてみせた。
「証拠の品がない。いくら過去をつぶさに観ることができても、その時代の物に触れたり手を加えたりするのはタブーだからね。木の葉一枚、石ころ一個、持ち帰れやしないんだ」
「そうじゃ。異時間移動魔法における禁則というもんがある」
 老魔女のひとり、リンマがぼそりとつぶやいてうなずいた。
「まあ、時間を遡るなんて自然の理に反することなんだから当然だろうけど。なんとか証拠を、と思ってカメラを持って行ったこともあるんだがなあ。フィルムには何も写ってはいなかったよ。遺跡の発掘チームに参加した時には定説を否定するようなことばかり主張するから、よく仲間に言われたもんだ、。オスカー・ペリエリ、お前の説は面白いが荒唐無稽だってね。悔しいが、僕の説を証明するような出土品はあまり見つからないから。貴重な遺跡が埋もれているはずの場所が地雷原になっていて、調査どころじゃなかったこともあったな……」
「証明などできなくても、オスカーに力があることは信じるよ。だが忘却の辞書を使った事情やあんな手紙を残したいきさつは説明してもらいたいね」
 オーリが水色の目をじろりと向けた。まだ少し怒っているようだ。
「こいつは拗ねているのさ。そんな面白い魔法を使うんならなぜ事前に教えてくれなかったのかってね」
 ユーリアンは茶化すようにオーリを見やり、それから真顔になってオスカーに向き直った。
「で、どうなんだ。本当に、手紙を出したのは十二月で、その後十一月に戻ったのか?」
「いや、手紙を出したのは最後だ。あの紙を切り取った時点で辞書の魔力が溢れ出すのは知ってるね。だから十一月の聖花火祭の夜に辞書を使い、翌日に手紙を書いて、僕は旅立ったんだ」
「旅立ったって、あのトランクの中から? だから、誰もお父さんが出て行ったのに気付かなかったんだ」
 ステファンは今さらのように、自分があの古いトランクを持っていきたい、と言い張った時のことを思い出して複雑な気分になった。
「でもガーゴイルが手紙を届けたのは十二月。なぜ一ヶ月も空白があった?」
「ひとつには、隠しておく為。なにせこっちは魔法道具の使い手としてはルール違反をしてるんだから。“魔法監理機構”にでも知られたら、手紙まで取り上げられかねない。それじゃ困るんだ」
「カンリなんとかって?」
「魔法使いや魔女にだってね、秩序はあるんだよステフ。いろいろ禁則を設けてるし、違反すれば罰も受けなきゃいけない」
 ステファンに簡単な説明をして、オーリは難しい顔をした。
「ルール違反って。何をやらかした、オスカー」
「うん、まあ。正直に言うとね、辞書を使ったのは一度だけじゃない。何度か過去に戻って、書き込んではやり直し、を繰り返したんだ」
 唖然とする一同の前で、オスカーは悪戯を告白する子どものような顔をした。
「なんと、オスカー・ペリエリ! わかっとるのかえ? 忘却の辞書に書き込めるのは、一人につき一項目だけじゃぞい」
「それなのに過去に戻って何度も書き直した? なんたることよ、辞書の禁則と時間の禁則、両方を破ったことになるわえ。監理機構に知られずとも懲罰もんじゃ!」
 タマーラとゾーヤが皺に埋もれた目をひんむいて非難がましい声をあげた。
「わかってますよ魔女さん。だから罰は甘んじて受けたんだ」
「罰って……二年間、この世界から消えちゃうってこと?」
 父と再会した場所――灰色の濃い霧に閉じ込められたような世界を思い出しながら、ステファンは恐る恐る口を開いた。
「島流しのようなもんよの。“シムルゥの間隙”というてな、この世とあの世の境にある世界よ」
「そこではあらゆる時間を行き来することができるが、自分の時間は流れぬ。意識はあるが、誰とも言葉を交わせず、働きかけることもできぬ。というて死ぬこともできず、まあ生きながら幽霊になるようなもんだわ。普通は一年と待たず精神(こころ)が壊れてしまうもんだがのう。まともに生きて帰る者は稀じゃわえ」
 魔女たちが歯の無い口で説明するのに割り込んで、オーリが身を乗り出した。
「そうだ、どうやって帰ってこれたんだ? あの十二本の罫線は、やはり何かの時限魔法なのか?」
「条件付き時限魔法、ってやつかな。古書の中で偶然見つけた、まあ抜け道のような方法だ。“外なる鍵と内なる鍵、十二の魔の目といまだ開かざる魔の目、そして五つの十二の重なる時”これらの条件がすべて満たされなければならないんだから、ほとんど成功するとは思わなかったけど。いわば、賭けのようなものだな」
「なんだって? まてまて、これは謎かけだ。解いてやるからまだ答えを明かすなよ、オスカー」
 新しい遊びでもみつけたように目を輝かせて、ユーリアンがメモを取り出した。
「“十二の魔の目”というのは解りやすいな。あの辞書と手紙の謎解きに関わった六人の魔法使いと魔女のことだ。僕、トーニャ、オーリ、ステファン、ソロフ師匠に、大叔父様か」
 指を折りながら数えるユーリアンの横で、オーリが考え込んだ。
「いまだ開かざる魔の目、とは?」
「トーニャのベビー。そうでしょ?」
 こともなげにエレインが答えた。
「エレイン、そうだよ! なぜ解ったんだ?」
「普通、そう思うわよ。お腹の中でまだ目を開いていない、でもすでに魔力があるから魔の目、ってことでしょ」
「女性の勘ってのは、時々恐ろしくなる……」
 頭を抱えるオーリには構わず、ユーリアンはメモを取り続けた。
「“五つの十二”これも解り易い。十二月十二日、十二時十二分。ええと、秒数まで指定してたとすれば……」
「いや、まさかそこまではね。トランクから出るまでだって何秒かかかるんだから」
「十二年目」
 ミレイユが小声でつぶやいた。
「なにがです?」
「今日は……その、十二回目の記念日、なんですわ。オスカーと、あたくしの……」
「あ、結婚記念日だ! そうだよね、お父さん」
 オスカーはうなずき、赤い顔でそっぽを向いたミレイユを見つめた。
「覚えていてくれたとはね、ミレイユ」
「あ、当たり前ですわ! あなたこそ、とうに忘れていらっしゃったんじゃなくて?」
 オホン、と咳払いをして笑いをこらえながら、ユーリアンが続ける。
「じゃあ、最初の条件。これは難題だ。“外なる鍵と内なる鍵”なんだろうな……」
「ぼく解るよ。それ、お母さんと僕で同じ夢を見て辞書の魔法を解いちゃったことだ」
「正解。なんだ、みんな簡単に解いちゃうんだな」
 ポン、ポン、とオスカーが手を叩いた。
「なぁる……魔力の無いミレイユさんは“外なる鍵”、ステファンが“内なる鍵”というわけか」
「冗談じゃありませんわ」
 ミレイユは細い眉をしかめて、とうに冷めてしまったお茶を無意味にかき回した。

「でも、おかしいな」
 ステファンは首を傾げた。
「なぜぼくは簡単にお父さんに会えたんだろう。誰とも言葉を交わせない場所だったんでしょう? でもぼくは普通にお父さんと話せたよ。それに……」
 怒りに任せて父をさんざん叩いた、とは言わず口の中でゴニョゴニョとごまかした。
「どこでオスカーに会ったって?」
「あの、さっき目が覚める前に、夢の中で」
 答えながらステファンは自分の言葉の矛盾に気付いた。そう、“夢の中”だったのだ。実際に父と会話したり、触れたりしたわけではない。
「お父さん。お父さんからぼくはどんな風に見えてたの? 声は聞こえてたよね?」
「ちゃんと聞こえてたよ。姿も見えたし、ポカポカ叩かれた時は痛かった」
「まああっ、お父さんにそんなことをしたの?」
 咎められてステファンは首をすくめたが、ミレイユはそれ以上叱るわけでもなく、気持ちは分かるわ、とつぶやいて頭を撫でてくれた。
「先生、あれって同調魔法みたいなもの?」
「いや。君はエレインの声と同調するうちに意識が深く沈んでしまって、ほとんど死に近い場所に居たんだ。きっとそのためにオスカーの居た“シムルゥの間隙”に入り込んでしまったんだと思うよ。でもそれは、同調魔法とは似て非なるものだ。前に君は、ソロフ師匠の“童心”に会って声や触感まで現実のように感じ取っただろう。今回はおそらくその逆のことが起こったんだと思う。――まあ、勝手な推論だが」
 ふーっとため息をついて、ユーリアンが呆れたように椅子にもたれた。
「なんともはや、君ら親子ときたら、とてつもないな!」
「まあまあ、難しいお話だこと。それよりお茶のお代わりはいかが」
 マーシャが熱いお茶を勧めて回った。
「親子なんてね、そんなものでございますよ。魔法なんて使わなくても、心を通わせようと強く思えばちゃあんと繋がるもんです。そうでございましょ、ミレイユ様」
 突然話をふられて、ミレイユは慌てて咳払いをした。
「そ、そうですわね。前にステファンが手紙で教えてくれましたわ。あたくしが夢で見たのと同じ光景を見たと。そのおかげであたくしは、ウルリク兄さんのことを思い出し……そうだわ、オスカー!」
 厳しい声で呼ばれて、オスカーは姿勢を正した。
「ステファンが教えてくれましたわ、あなたって人はよくもまあ! 無断で人の記憶を消すなんて失礼なこと! そもそもあなたがそんな勝手なことをするから、こんな騒動が起きたんじゃありません? 反省なさってるの?」
「お、お母さん。だってそれは、お母さんのために」
「お黙りなさい、ステファン。だいたいねオスカー、あたくしはそんなに弱い人間ではありません。ウルリク兄さんのことだって、ちゃんと実家に行って話し合って……話し合って……」
 赤い顔でまくし立てていた声が急にしぼみ、ミレイユは膝の上に視線を落とした。
「あたくし“生まれ変わり”なんて信じませんけど。でもどうしても、ステファンを見る度、ウルリクの小さい頃と重ねずにはいられなくて、それが恐くて。けどこの前実家に行って写真を見たら、思っていたほど二人は似ていなかったわ。そうよね、もともと違う人間なのだから。あたくしが勝手に息子と兄のイメージを結び付けてただけだと気付きましたの。だから……」
 おろおろしているステファンの顔をなでて、ミレイユは苦い微笑を浮かべた。
「あたくし、やっと分かりましたの。この子はステファン。ウルリクとは違って、ちゃんと成長して毎年祝福されながら誕生日を迎えられる子なんだって。七月にオーリ先生が迎えにきてくれて良かったわ。でなければ、あたくしは自分の息子の心をを押しつぶしていたかもしれない」
「そう思うなら感謝するべきですよ、オスカーの無謀な行動に」
 オーリの言葉に眉をそびやかして、ミレイユは顔を上げた。
「ええ、感謝ならもうとうに。オスカー、あなたおっしゃったんですってね、“自分の幸せのために生きて欲しい”って。ではあたくし、その言葉通りにさせていただきます。帰ったら、弁護士に会ってくださいますわね?」
「お母さん……」
 一瞬、ステファンの目の前が真っ暗になった。そのまま椅子に深く沈み、強く目をつぶる。
 そうなのだ。両親の離婚裁判という、現実が待っていた。
 父が帰ってきたからといって、全て解決したわけじゃなかった。

 目をつぶったまま、ステファンは震えた。
 もしかして、全部夢だったのだろうか。
 オーリローリという、不思議な魔法使いが自分を迎えに来たことも。
 翼竜に乗って魔法使いの家に迎え入れられ、妖精や、神秘的な森や、アトリエの奇妙な連中に会ったことも。赤毛の心優しい竜人、エレインのことも。まがりなりにも魔法使いとして杖を持ち、そして父と再会できたことも。
 みんな目を開けたら霧のように消え去って、誰かが冷たい声で告げるのだろうか、あれは子どもの見る夢だったんだよ、と。

 バチバチバチッ!
 頭の中に金色の火花が飛び、驚いてステファンは目を開いた。
「目が、覚めたかい?」
 額に指を向けたままで、水色の目が覗き込んでいた。
「ステフ、君の手の中にあるものは何だ? 君はそれが、夢だと思うのか?」
 言われるままに、自分の両手を見る。いつのまにか右手で母の手を、左手で父の手を、しっかりと握っていた。
 おずおずと右を見る。うちの息子に何てことするのだと、ミレイユがオーリに抗議している。
 左を見る。オスカーが、心配そうにステファンの顔をのぞきこんでいる。
 視線をめぐらすと、オーリの肩越しにエレインの顔が、マーシャが、ユーリアンが。そして自分の治療に当たってくれた魔女たちが。
「夢じゃない……」
「そうだ、君の手の中にあるもの、目に見えるもの、すべて現実だ。良くも悪くもね。不満かい?」
 ステファンは顔をしっかりと上げ、オーリの目を見つめ返して答えた。
「いいえ、先生」
 そして両手に力を込めて言った。
「お父さん、お母さん、続きは家に帰ってから、ゆっくり話し合おうよ。その代わり、大人の問題、とか言わないで。ぼくにだって、いっぱい言いたいことがあるんだ!」 

*  *  * 

 田舎とはいえ、十二月のプラットホームは人や荷物がせわしなく行き交ってにぎやかだ。
「どうしても杖は持って帰っちゃだめ?」
 不満そうに口を尖らせて、ステファンがローブの裾を揺らした。
「駄目だ。君はなんといってもまだ見習いなんだからね。杖の練習は、年が明けてから。それまでは魔法使いとしてではなく、ただの子どもとしてしっかり両親に甘えてくること。マーシャにも休暇を取ってもらっているんだから、年内は戻ってくるんじゃないよ、いいね」
 オーリに頭をくしゃくしゃとされながら、ステファンはふと不安を顔に浮かべた。
「もし、“両親”じゃなくなってしまったら?」
「こら、今からそんな弱気でどうする。大丈夫だよ。二人の左手を見てごらん」
 ステファンは振り返り、父と母それぞれの左手に、まだしっかりと指輪が光っているのを見とめた。
「顔を上げるんだ、ステファン・ペリエリ。それに何があろうと、君がオスカーとミレイユの子どもだってことに変わりはないだろ?」
「そうだよね!」
 明るい顔で両親の元へ駆けていく後姿を見ながら、エレインがため息をついた。
「人間ってややこしいのね」
「ややこしいよ。愛想が尽きそう?」
 ふふん、とはにかんだように笑って、エレインは裾の狭まったスカートを気にした。トーニャが贈ってくれたワイン色のペプラムスーツは、すんなりしたエレインの肢体にとても良く似合っている。
「そうだ、一つ疑問が残ってるんだけど。オスカーはなぜ何度も辞書を使う必要があったの? ミレイユの記憶を消すためだけなら、一度で良かったんじゃない?」
 オーリは答えず、昨日オスカーに同じ事を問いただしたことを思い出した。あの時オスカーは言ったのだ。フィスス族が滅んだ原因のひとつは自分にもあるのではないかと。遺跡を発掘しながら偶然竜人の守り里を見つけたことを、同じチームの人間が発表してしまったことをずっと悔いている、と。その後オスカーが何のために、誰の記憶を消そうとして何度も辞書を書き直したのかは、訊かなかったが。
「人間は、ややこしいんだよ」
 それだけ言ってオーリがもう一度ペリエリ家の三人を見ると、目が合った途端ステファンがこちらに駆けて来た。そのまま右手をエレインに、左手をオーリに伸ばしてハグをする。
「エレイン、もし先生とケンカしても、あの家を出ていっちゃダメだよ! それから先生は、エレインをあんまり怒らせないで。今度また前みたいにケンカしたら、ぼくがエレインとケイヤクして守護者になってもらうんだからね!」
 言いたいことを言ってしまうと、照れたようにきびすを返して、ステファンは再び両親の元へ駆け戻っていく。
「しまった、思わぬところに恋敵が潜んでたか。あいつめ……」
「何のこと?」
 きょとんとしているエレインの問いをかき消すように、列車は長い汽笛を残して走り去った。

「あのう……もしかして、エレイン、さん?」
 驚いて振り返る二人に声を掛けたのは、スケッチブックを抱えた画学生風の少女だった。広い額に掛かる前髪を掻き分けながら、金色に近い瞳で見上げる。
「竜人の……エレインさんですよね? それにオーリローリ先生。雑誌に記事を連載していらしたでしょう?」
「よく知ってるね」
 オーリが愛想よく答えると、少女は顔を輝かせた。
「ああやっぱり! あたし、あのお話大好きだったんです。雑誌の記事、全部切り抜いて大切にしてます。あの、お名前書いてもらっても……?」
 少女は遠慮がちにスケッチブックを開いて差し出した。ページの中央に、オーリの描いたペン画が貼り付けてある。
「二人連名でいいかな」
 そう言うとオーリは万年筆を取り出し、エレインの手に握らせると、自分も手を添えて“エレイン&オーリローリ・ガルバイヤン”とサインをした。
「わあ、ありがとうございます!」 
 感激した面持ちの少女は、周囲を気遣いながら小声で告げた。
「じつは、あたしの母も、エレインさんと同じような身の上だったんです。誰にも内緒だけど」
「あなたのお母さんは?」
「二年前に亡くなりました。でも亡くなる前、悔いの無い一生だった、って父に言ってたんですって。父とは駆け落ちだったんですよ。これも内緒だけど」
 少女はそれだけ言うと一礼し、スケッチブックを大切そうに抱えたまま走り去った。

「オーリ、見た? あの娘の目!」
「ああ。竜人の目をしていたな」
 次の列車に乗る人の列に紛れて、少女の姿はもう見えなくなっていた。それでもエレインはなおも、少女の去った方向を見ながらつぶやいた。
「あたし、竜人の血を残せるのかも知れない……」

 やがて列車が走り去ると、駅は再び田舎の静けさを取り戻した。
 オーリはひとつ咳払いをし、改まった顔でエレインに向き直った。
「ところでエレイン、今日が新月の日だって覚えてるかな」
「覚えてるもなにも、あたしが一番分かってることだもの。どうしたの?」
「久しぶりに王者の樹に会いにいってみないか、二人で」
「今から? なぜ」
「だから、今日は新月だから、その……」
 オーリはやや顔を赤くしながら言いよどんだが、エレインの手を取るときっぱりと言った。
「君が故郷で迎えられなかった“新月の祝”を、あの神聖な樹の下でやり直したいんだ」
「あら、“新月の祝”というのは何十人もの候補の中から一人の伴侶を選ぶものよ。あたしには選択の余地がないってわけ?」
「ない! ない! 君に選ばれるのは、このオーリローリ一人で充分だ。不満か?」
「ふーん?」
 エレインはからかうような目つきで、赤くなって必死な表情をしているオーリを見上げた。
 “選択”ならとうにしている。二年前、故郷と共に滅ぶよりも、この風変わりな魔法使いと共に生きることを選んだあの日に。それがこの男には分からないのだろうか?
「いやその、約束だけでもいいから……そりゃ、僕は竜人の男に比べたら頼りないかも知れないけど」
 次第に弱気になっていくオーリの声に吹き出しそうになりながら、エレインは大胆に腕を組んだ。
「ま、いいでしょ」

 柔らかな冬の陽射しが斜めに傾く中で、どう、と風が吹き過ぎる。
 風の中に一筋、紅色と銀色の光が走り、笑い声と共に過ぎていったのに気付いた人はいただろうか。

 静かな森の中で、常緑の王者の樹は、一層輝きを増した。

(了)


にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ 
読んでいただいてありがとうございます。応援していただけると励みになります。

 「20世紀ウィザード異聞」無事に完結しました。
NEWVELLIBRARYにほぼ同じ内容を投稿していますので総文字数を見ると、
 「174233文字」 原稿用紙だと、435枚以上ってか……
昨年秋にブログで連載を始めた頃には、こんなに長く書く予定じゃなかったんですが。
一気読みするのはちと大変です。
よろしかったらHPのほうで少しずつ載せていますので、そちらでもどうぞ。

書き終わってみて悔いがないかといえば

そんなはずあるわけないっ!
あーんなとこやこーんなとこ、今すぐにでも書き直したいっ!

という、いつものビョーキが出そう。
文章の稚拙さは言うまでもなく、言葉の選び方間違ってるんとちゃう?とかー、
くどい! 話をもっと整理せい! とかー、
逆に、これじゃなんのこっちゃらわからん、説明不足やろーとか。
まあツッコミの嵐が自分の中に吹き荒れておるわけで。
特にエピローグは早く終わらせようという魂胆がみえみえで、
オスカーが帰ってくるために必要な「条件」とやら、あっさり種明かししすぎたかなと。
どうせならもっと前に「条件」を謎かけとして提示しておいて、
その謎解き話で進めれば面白かったんではないかと。
ま、今は書き直す時間もなし、HPに載せる段階でまた手を入れることになるでしょう。

いずれにせよ、「松果」の長編処女作としてはなんとか形になったので、ホッと胸をなでおろしているところです。(短編童話のほうが先に書きあがったんだけど)

一年近く続いた連載に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
皆さんの有形無形の励ましが大きな力となりました。
しばらく日数を置いて、また番外編など書きたいと思いますので、
その時はまた楽しんでいただけたらと思います。

  松果

本編が完結して、しばらく充電しておりました。

さーてそろそろ番外編を……と思ったんですが、
「オーリローリ」も連載再開したし、
アルファポリスに登録したHPのほうも手を加えなきゃだし。

でも、新たにプロット練ったりする時間がないので。
恥ずかしい~過去作品を持ってきました。

「竜王の愛娘(まなむすめ)」えーと、4~5話の中篇くらいかな。
なにせ本編を書き始めた昨年にお遊び気分で書いてたもので、
文章は稚拙だわ、設定に無理があるわ、読み返すと赤面ものですがね。
書くことが楽しくてならなかった頃の勢いみたいなものが感じられる文章だと思うので、
これも「松果」の成長途上の記録として、恥を忍んで公開します。
本編が重いテーマを扱ってたのに比べて、番外編はゆるーく力が抜けたラブコメ調でしょうか。
とはいえ、やっぱり甘あまにはならないですね、私が書くと。
恋愛描写は苦手ですっ(開き直り)

では番外編をどうぞお楽しみください→「竜王の愛娘

にほんブログ村 小説ブログ ファンタジー小説へ 
読んでいただいてありがとうございます。応援していただけると励みになります。

番外編 「竜王の愛娘」 2話を、ちょっと予定より早く更新しました。

オーリがエレインと契約する経緯をさらっと書いたりしてます。
結構屈折してたんだねオーリ。

あいたたた……はっきり言ってベタ展開です。
加筆したけど、やっぱりベタです。まあいいや。
今回登場する水魔は、ロシアの伝説に出てくる奴をちょこっとアレンジしました。
分かる人には元ネタが分かってしまうという……

ご感想、お待ちしております。→ 作品ページへGO!

<< 前のページ 次のページ >>
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
最新記事
最古記事
ブログ内検索
プロフィール
HN:
松果
HP:
性別:
女性
職業:
兼業主婦
趣味:
読書・ネット徘徊
自己紹介:
趣味で始めたはずの小説にはまってしまった物書き初心者。ちょいレトロなものが好き。ラノベほど軽くはなく、けれど小学生も楽しめる文章を、と心がけています。
バーコード
最新コメント
[09/24 松果]
[09/24 松果]
[09/24 松果]
[09/24 ミナモ]
[09/24 松果]
カウンター
アクセス解析
フリーエリア
最新トラックバック
忍者ブログ [PR]