1950年代の欧州風架空世界を舞台にしたファンタジー小説です。
ちょいレトロ風味の魔法譚。
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その日のうちに、オーリは描きかけの画面全体を油で薄めた深緑の絵の具で塗りつぶしてしまった。
なんて勿体無いことをするんだろう、とステファンは思ったが、もとより絵のことなんかわからないし、黙って見ているしかない。それにオーリの目の輝きを見ていると、ここから何が生み出されるのだろうという期待のほうが勝ってくる。
アトリエに、再びエレインが戻ってきた。
相変わらず気ままに梁の上に寝転がって面白そうに作業を眺め、時折からかうような言葉を投げてくる。けれどそれだけで、寒々としていた部屋の雰囲気がいっぺんに変わり、皆をホッとさせるのは不思議だった。
イーゼルに乗せると天井に届きそうなカンバスは、長身のオーリといえども画面の隅まで描き込むとなると大変だ。最初のうちはイーゼルに付いたハンドルで高さを調節しようとしていたが、重いので諦めたらしく、オーリは脚立を持ち込んで描き始めた。
こと絵に関しては、オーリは一切魔法を使わない。数本の筆と刷毛とナイフを駆使し、描く、描く、ひたすら描く。 ステファンは助手といっても絵が描けるわけでもなし、オーリから指示された番号の絵の具を手渡したり、筆を取り替えたりするくらいしかできない。魔法修行とは何ら関係なさそうだが、それでも初めてオーリの役に立てる誇りで胸が躍った。
問題はエレインだ。
剣を構えたり弓に矢をつがえたりしてモデルを務めるはずが、ものの五分とじっとしていられないらしく、しばしばオーリに文句を言わせた。
「あーもう台無しだ! なんでそう動きまわるんだよ」
「だって退屈なんだもん」
「あの落ち着きのないユーリアンだって絵のモデルくらいは務まったぞ、君は筋力はあるくせにこらえ性がないんだ!」
「偉そうに言わないでよヘボ絵描き!」
また、騒々しい日々が始まった。けれどステファンはもう心配しなかった。お互いの鼻先に噛み付かんばかりに大声でわめき合っていても、二人の間の空気が以前とは全然違うことに気付いたからだ。
「せんせーい、あんまりエレインを怒らせてると絵の中の人まで怖い顔になっちゃうよ」
落ち着いたステファンの声に二人は吹き出し、それぞれの位置にまた戻る。
「おやまあ、すごい臭いだこと」
アトリエにお茶を運ぶマーシャが顔をしかめた。
「いくらお仕事に熱中してても換気はしなくちゃいけませんよ、オーリ様。ステファン坊ちゃんにも良くありません」
「溶き油の臭い? ぼく慣れちゃったよ」
「そうら、その“慣れる”っていうのが良くないんです」
マーシャは厳しく言って窓を全開にした。
「確かに揮発油の臭いは身体に良くないな。悪かった、ステフ。助手を頼んだからといって一日中アトリエに篭っていることはない、時々は外に出て遊んで来ればいいよ」
「それで言うんなら絵の具も毒なんでしょ。絵筆を口にくわえるクセはやめなさい、オーリ。あたしまで被害を受けるから」
お茶を飲もうとしていたオーリは顔を赤くして咳き込んだ。
そんな日々を送るうちに、不思議な変化が起きた。
オーリは以前のように大食しなくても魔力を保てるようになって、マーシャを大いに驚かせた。逆にエレインは人間の食べ物に興味を持って、甘いデザートくらいは恐る恐る口にするようになってきた。
「無理に人間に合わせることはないんだよ」
心配そうなオーリにエレインは首を振った。
「別に無理はしてないわよ、前から食べてみたかったの、本当は。でもなんか、怖くてさ。人間の食べ物を食べちゃうと、竜人じゃなくなるような気がして」
「何を召し上がろうと、エレイン様はエレイン様でございますよ」
マーシャは嬉しそうに言った。
「確かに。この二年間酒とお茶しか口にしなかったのに、その丈夫そうな犬歯は衰えそうにないもんな」
「竜人の牙と言ってちょうだい」
軽口の応酬をしておいて、エレインはふと真顔になった。
「ねえオーリ、竜人と人間の祖先って、どのくらい近いのかしら」
「祖先? さあ、どうかな。どうして急にそんなことを?」
「確かフィスス族を生み出したお母さんは、紅い竜だったんだよね」
ステファンは落雷の時に見た美しく大きな竜を思い出しながら言った。
「創世譚では、そういうことになっているわ。でもわからないのは“始めの父”よ。東方から来た皇子、という以外には何も伝えられていないの。今まで知ろうとも思わなかったけど……」
「似たような話なら、人間の世界にもあるさ。母は昔、父のことを“東洋の龍の子孫”だと言っていた。もちろんそんなのはおとぎ話なんだけど、子供の頃は本気で信じていたよ」
「それ、本当におとぎ話なの?」
エレインが目を輝かせた。
「ああ、残念だけど。でも、祖先のことはともかく、フィスス族の存在を知った時に不思議に親しみを覚えたのは事実だ。母の言った東洋の“龍”というのは西洋ドラゴンと違って、翼がないんだ。それに、雷や雨を司るとも言われている。フィスス族の始母竜の話と驚くほど似ているね。それと、ガルバイヤンという姓――祖父ヴィタリーの通り名だが――も、“雷を操る”という意味を持っている。なんだろうね、この類似は」
窓から吹き込む風が、黄金色の落ち葉を運んできた。秋の午後は短いが、まだ陽は輝いている。オーリは席を立ち、散歩に行こう、とエレインを誘った。
「ステファンも来るかい?」
「ええと――ううん、いいや。ぼく、“半分屋敷”の手入れをしなくちゃ」
ステファンだってもうじき十一歳だ。こんな時に“おじゃま虫”になるほどお子ちゃまではない。オーリ達よりひと足先に外に出て、庭に向かった。
「運命というものですよ」
マーシャはオーリ達を見送りつつ一人で微笑んだ。
「わたくしは最初から分かっておりました、エレイン様は来るべくしてオーリ様の元にいらした方なんです、きっと」
ステファンは庭草に埋もれた“半分屋敷”の前で腕組みをして考えた。手製の日除けはもう要らない。その代わり、寒くなるまでに崩れた壁を自分で直してみよう、そう思った。たとえ時間がかかっても、不恰好でも、一つ一つ石を積み上げていくのだ。オーリの魔法に頼るのではなく、自分の手で。
庭草の間に白い物が光っている。ステファンが置き忘れた蝋石(ろうせき)だ。夏の間はこれで壁石に落書きをして遊んだ。
「――捕まえた!」
ステファンが手を伸ばすと、小さな蝋石は真っ直ぐに飛んで手の中に納まった。今はまだこんな力しかない。でも、もう頭痛は起こらない。ステファンは満足そうにうなずいて、一番大きな壁石に自分の名前を記した。
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なんて勿体無いことをするんだろう、とステファンは思ったが、もとより絵のことなんかわからないし、黙って見ているしかない。それにオーリの目の輝きを見ていると、ここから何が生み出されるのだろうという期待のほうが勝ってくる。
アトリエに、再びエレインが戻ってきた。
相変わらず気ままに梁の上に寝転がって面白そうに作業を眺め、時折からかうような言葉を投げてくる。けれどそれだけで、寒々としていた部屋の雰囲気がいっぺんに変わり、皆をホッとさせるのは不思議だった。
イーゼルに乗せると天井に届きそうなカンバスは、長身のオーリといえども画面の隅まで描き込むとなると大変だ。最初のうちはイーゼルに付いたハンドルで高さを調節しようとしていたが、重いので諦めたらしく、オーリは脚立を持ち込んで描き始めた。
こと絵に関しては、オーリは一切魔法を使わない。数本の筆と刷毛とナイフを駆使し、描く、描く、ひたすら描く。 ステファンは助手といっても絵が描けるわけでもなし、オーリから指示された番号の絵の具を手渡したり、筆を取り替えたりするくらいしかできない。魔法修行とは何ら関係なさそうだが、それでも初めてオーリの役に立てる誇りで胸が躍った。
問題はエレインだ。
剣を構えたり弓に矢をつがえたりしてモデルを務めるはずが、ものの五分とじっとしていられないらしく、しばしばオーリに文句を言わせた。
「あーもう台無しだ! なんでそう動きまわるんだよ」
「だって退屈なんだもん」
「あの落ち着きのないユーリアンだって絵のモデルくらいは務まったぞ、君は筋力はあるくせにこらえ性がないんだ!」
「偉そうに言わないでよヘボ絵描き!」
また、騒々しい日々が始まった。けれどステファンはもう心配しなかった。お互いの鼻先に噛み付かんばかりに大声でわめき合っていても、二人の間の空気が以前とは全然違うことに気付いたからだ。
「せんせーい、あんまりエレインを怒らせてると絵の中の人まで怖い顔になっちゃうよ」
落ち着いたステファンの声に二人は吹き出し、それぞれの位置にまた戻る。
「おやまあ、すごい臭いだこと」
アトリエにお茶を運ぶマーシャが顔をしかめた。
「いくらお仕事に熱中してても換気はしなくちゃいけませんよ、オーリ様。ステファン坊ちゃんにも良くありません」
「溶き油の臭い? ぼく慣れちゃったよ」
「そうら、その“慣れる”っていうのが良くないんです」
マーシャは厳しく言って窓を全開にした。
「確かに揮発油の臭いは身体に良くないな。悪かった、ステフ。助手を頼んだからといって一日中アトリエに篭っていることはない、時々は外に出て遊んで来ればいいよ」
「それで言うんなら絵の具も毒なんでしょ。絵筆を口にくわえるクセはやめなさい、オーリ。あたしまで被害を受けるから」
お茶を飲もうとしていたオーリは顔を赤くして咳き込んだ。
そんな日々を送るうちに、不思議な変化が起きた。
オーリは以前のように大食しなくても魔力を保てるようになって、マーシャを大いに驚かせた。逆にエレインは人間の食べ物に興味を持って、甘いデザートくらいは恐る恐る口にするようになってきた。
「無理に人間に合わせることはないんだよ」
心配そうなオーリにエレインは首を振った。
「別に無理はしてないわよ、前から食べてみたかったの、本当は。でもなんか、怖くてさ。人間の食べ物を食べちゃうと、竜人じゃなくなるような気がして」
「何を召し上がろうと、エレイン様はエレイン様でございますよ」
マーシャは嬉しそうに言った。
「確かに。この二年間酒とお茶しか口にしなかったのに、その丈夫そうな犬歯は衰えそうにないもんな」
「竜人の牙と言ってちょうだい」
軽口の応酬をしておいて、エレインはふと真顔になった。
「ねえオーリ、竜人と人間の祖先って、どのくらい近いのかしら」
「祖先? さあ、どうかな。どうして急にそんなことを?」
「確かフィスス族を生み出したお母さんは、紅い竜だったんだよね」
ステファンは落雷の時に見た美しく大きな竜を思い出しながら言った。
「創世譚では、そういうことになっているわ。でもわからないのは“始めの父”よ。東方から来た皇子、という以外には何も伝えられていないの。今まで知ろうとも思わなかったけど……」
「似たような話なら、人間の世界にもあるさ。母は昔、父のことを“東洋の龍の子孫”だと言っていた。もちろんそんなのはおとぎ話なんだけど、子供の頃は本気で信じていたよ」
「それ、本当におとぎ話なの?」
エレインが目を輝かせた。
「ああ、残念だけど。でも、祖先のことはともかく、フィスス族の存在を知った時に不思議に親しみを覚えたのは事実だ。母の言った東洋の“龍”というのは西洋ドラゴンと違って、翼がないんだ。それに、雷や雨を司るとも言われている。フィスス族の始母竜の話と驚くほど似ているね。それと、ガルバイヤンという姓――祖父ヴィタリーの通り名だが――も、“雷を操る”という意味を持っている。なんだろうね、この類似は」
窓から吹き込む風が、黄金色の落ち葉を運んできた。秋の午後は短いが、まだ陽は輝いている。オーリは席を立ち、散歩に行こう、とエレインを誘った。
「ステファンも来るかい?」
「ええと――ううん、いいや。ぼく、“半分屋敷”の手入れをしなくちゃ」
ステファンだってもうじき十一歳だ。こんな時に“おじゃま虫”になるほどお子ちゃまではない。オーリ達よりひと足先に外に出て、庭に向かった。
「運命というものですよ」
マーシャはオーリ達を見送りつつ一人で微笑んだ。
「わたくしは最初から分かっておりました、エレイン様は来るべくしてオーリ様の元にいらした方なんです、きっと」
ステファンは庭草に埋もれた“半分屋敷”の前で腕組みをして考えた。手製の日除けはもう要らない。その代わり、寒くなるまでに崩れた壁を自分で直してみよう、そう思った。たとえ時間がかかっても、不恰好でも、一つ一つ石を積み上げていくのだ。オーリの魔法に頼るのではなく、自分の手で。
庭草の間に白い物が光っている。ステファンが置き忘れた蝋石(ろうせき)だ。夏の間はこれで壁石に落書きをして遊んだ。
「――捕まえた!」
ステファンが手を伸ばすと、小さな蝋石は真っ直ぐに飛んで手の中に納まった。今はまだこんな力しかない。でも、もう頭痛は起こらない。ステファンは満足そうにうなずいて、一番大きな壁石に自分の名前を記した。
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Comment
らんららさんへ
ニヤニヤしてくださいませ(^^)/
うん、この「龍と竜」の話はね、アトラスの設定を考えるのにあちこち調べてて思いついたんです。その後ミナモさんの作品(龍頭の丘)に出会って、不思議な縁を感じました。
乙女心!そうそう(笑)
半分屋敷の秘密基地は子どもの夢ですからね…さりげなくまた後から登場するかもよ。
うん、この「龍と竜」の話はね、アトラスの設定を考えるのにあちこち調べてて思いついたんです。その後ミナモさんの作品(龍頭の丘)に出会って、不思議な縁を感じました。
乙女心!そうそう(笑)
半分屋敷の秘密基地は子どもの夢ですからね…さりげなくまた後から登場するかもよ。